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善悪は二種類:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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私どもの平和と癒しの運動の、日々の活動日誌です。

善悪は二種類


複雑怪奇な善悪なるものを、出来るだけ整理し、文章へと落とす。
そんな作業を続ける中で、また新しい発見をしてしまった。それもかなり重大な発見だ。

善悪のことをずうっと二分類だと思っていた。けれど厳密に見れば、そうじゃない。
善悪は二種類なのだ。

二分類と二種類には、実はとても大きな差がある。二種類のものを二分類だと思い込めば、見えるはずものが見えなくなる。
こんなところにもマジックの種が潜んでいた。何個目のマジックの種の発見だろう?

ともあれ、この発見のおかげで、ぐっと善悪の問題点が明確化できたのだ。
複雑怪奇さを少し減らせるかもしれない。

@これだけ読まれても何のことかお分かり頂けないと思うが、いずれ詳しくご説明できると思うので、お許しを。<(_ _)>

問題点が明確化されたといっても、それは僕の頭の中だけの話。二分類を前提で書いていた原稿が、二種類となれば、随分と中身が変わる。どこをどう変えるやら。何を書き足すやら。
・・・正直、今、ちょっと気が遠くなっている。何ということを始めてしまったやら。(およそ20年前のことだが^^;;)

焦らずやろう。^^;;
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  1. 2019/12/11(水) 13:26:02|
  2. 日誌|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:4
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コメント

花ブナ様

しばらく日誌を見てなくて、RES遅くなりました。<(_ _)>

>ある種のマジック、トリックにかかっている感じがありますね

ええ、おっしゃる通りです。意図的・非意図的。まさにその通りで、人が潜在意識と表面意識の間を行ったり来たりしながら、意図して無意識に(という完全な矛盾です)、善悪を利用しています。
善悪は人間の感情や行動を支配する道具なのですが、道具に支配を委ねれば道具に支配されてしまいます。今はまさにその状況。^^; そしてまさに「降りれなくなってる」。

まあ、猫でも高い木に登って降りれなくなることがあるので、人間がそうなってもまったく不思議ではないですね。(笑)

>逆に言えば、ほとんど誰もやっていない、すごくオリジナリティーの高いやりがいのある事業ですよね。

ありがとうございます。<(_ _)>
確かにオリジナリティだけは高そうです。(笑) 原稿を書いていて、他の本からの引用がゼロなんです。参考絵本といって、自分が書いた絵本を引用することはあるのですが。
全部自分で考えたこと、というのはちょっとすごいかも(爆)、なのですが、壮大な勘違いだったりして。ヤバ(((^^;

がんばります。(^_-)-☆
  1. 2020/01/25(土) 12:40:36 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

>>善悪は分類のような顔をして分類ではない、という面・・・
ある種のマジック、トリックにかかっている感じがありますね。あらかじめ「そうなるよう」答えが決まっているものについて、自由意志で選択したように認識させる効果がある(したがって洗脳的効果が高い)など。それを誰かが意図してやった、というだけでなく、非意図的に様々な補強も加わって「降りれなくなっている」そんなイメージかなと思いました。
この複雑な問題を解体し、逆転させようとすることは、ものすごくエネルギーのいる難しい仕事だと思いますが、逆に言えば、ほとんど誰もやっていない、すごくオリジナリティーの高いやりがいのある事業ですよね。微力ではありますが、東郷さんのチャレンジを今後も応援したいと思います。(なんか言い方が偉そうですみません(^^;)

これも、言葉にするのは難しいのですが、私の考えとしては「善悪中毒」に人々が気が付くには、いわゆる理性や良識に対するある種の疑念というか、限界を悟ること、が必要なのでは、と思っています。例でいうと、作家のマーク・トウェインが「人間とは何か」で問うているような内容です。でも、この辺の話は大抵抽象的すぎて、うまく伝わらないんですよね(普段から関心のある人を除けば)。多くの人に伝えたい、となるとやはり絵本のようなメディアが有効だと感じています。もちろん、それはそれで形にするのは非常に難しい(というか私自身にはできなさそう)と思いますので、できそうな方に着目しています。(またまた偉そうですみません)
  1. 2019/12/19(木) 12:28:49 |
  2. URL |
  3. 花ブナ #uWstiZRU
  4. [ 編集]

花ブナさん、お久しぶりです。
僕がここで分類と種類といったのは、善悪は分類のような顔をして分類ではない、という面を新たに見つけたからです。ひとことでは説明できないのですが。^^;;

ようやく、本当にようやくですが、善悪の全体像、その正体が見えてきたかなあと思っています。

人がなぜ善悪に中毒し、錯覚の中で生きるようになったか。まあ、おっしゃる通り、無理な矯正なのかもしれませんね。愛も勇気も足りなかったのかもしれません。単純に勘違いというか。僕のイメージとしては、噴水にピンポン玉を乗せると、ずっと落ちないですよね。流れ出る噴水に囚われてクルクルまわって。人間もピンポン玉のように、噴水に囚われているような気もします。

善悪の正体を見事に暴ければ、善悪中毒・錯覚の流れを逆転できると思っています。簡単なことではないですが・・・
  1. 2019/12/15(日) 23:04:44 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

分類+価値判断

「善悪(中毒)」には、単に分類するというだけでなく、どちらか一方のみを愛する(愛せよ)/愛さない(愛するな)という価値判断が伴う、善なるもの・行い/悪なるもの・行いを別種のものとして扱う(扱え)という作用がある、ということでしょうか。とするとやはり「魔法のめがね」の頃から示されている善悪中毒の主テーマだと思います。

ヒトがなぜそのような錯覚に陥ってしまうかということを私もずっと考えているのですが、基本的には、動物だったころの「古い心・感情」と概念的に世界を把握しようとする「新しい思考・判断」の狭間で揺らぐ、心の“不調和”が背景にあると思っています。
そして、この心の“不調和”を無理に解消しようとするから、かえって色んな間違いというか、深刻な錯覚や問題を生み出してしまう。そういう“ジレンマ”が概ね4000年前から続いている、ということかと考えています。
ヒトが子供から大人になるためには、大抵「思春期」という不安定な時期を経験しないと、まともな大人になれないように、本来その“不調和”も、ある意味成長の証であって、無理に矯正しようとするのではなく、“不調和”なまま、赤飯でも炊いて、悩めばよかったのだと思います。でも、そんな悠長なこといっている余裕がない人々が世界には多かった、現代人・日本人からは想像しえないような実にシビアな社会状況・環境条件があったから、そうなったのでしょうね。
しかし、そういう苦しい状況を解決するために多くの犠牲を払い、相応の経験を得たはずの人間社会が、またぞろ善悪中毒や錯覚を深め、これまでの努力を“おじゃん”にしようとしているなら、それはもうなんとも残念というか、悲劇と喜劇が同時に襲うどうしようもなさ、を感じてしまいます。
なんにしても、ヒトとは、そもそもそういう心の“不調和”を抱えた「ありがたい」存在なのだと気が付く(楽しむ)知恵と、それで(自他を)「よし」とする包んでこえるための愛と勇気が必要なのだと思います。言葉で表現するのは難しいですが。
  1. 2019/12/13(金) 01:22:11 |
  2. URL |
  3. 花ブナ #uWstiZRU
  4. [ 編集]

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