私ども平和の絵本の、日々の活動日誌です。

新作絵本「恐怖は意欲を消す」アップ:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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私どもの平和と癒しの運動の、日々の活動日誌です。

新作絵本「恐怖は意欲を消す」アップ


新作絵本「恐怖は意欲を消す」をアップしました。

サポーターの方の意見を入れて、「思い入れ過剰」を意識してみました。
出来るだけ身近に感じていただきたいという趣旨から、子供を叱るというごく身近な出来事を取り上げ、善悪という言葉も意識的に使っていません。

「罰は〇〇を生む」というタイトルからも離れています。 
子供の叱り方に悩む、親御さんには、ぜひご覧になっていただきたいと思います。

またご感想なりお聞かせください。<(_ _)>

→絵本「恐怖は意欲を消す」
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  1. 2017/07/05(水) 15:35:35|
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コメント

マーフィーの法則

かっさん「マーフィーの法則」っていうの、初めて聞きましたけど、何かを期待して何かを選択すると、期待とは真逆の事を引き寄せてしまう、みたいな法則ですかね?
「マーフィーの法則」とかいうと、なんだか難しそうな感じがしますけど、そういう話って、たとえば元気に生きるために、ごはんを沢山たべていたら太り過ぎて病気になってしまったとか、それでダイエットに取り組もうと思って、ごはん抜きにしたら血糖値が下がりすぎて元気がなくなって倒れてしまったとか、たくさん運動してやせようと思ったら、筋肉や関節を痛めてしまって動けなくなったとか、それで運動しないほうがいいと思ったら、ますます筋力や足腰が弱ってしまって、さらに筋肉や関節を痛めやすい体質になってしまったとか、それで運動すること自体が困難になって代謝が落ちてしまって、ますます太ってしまったとか、そういう世間話と同じような事じゃないですかね?
上記の、たとえ話のような状況に陥ってしまう理由について考えるなら、「マーフィーの法則が働くから」という解釈をする事も出来るかも知れませんけど、「ただ医学知識が乏しいだけ」という解釈をする事も出来るんじゃないでしょうか?
この場合、ちゃんとした医学知識さえあれば、マーフィーの法則が働いているかのように見える状況が起こる事はなかった(防ぐことができた)という風に考える事も出来るんじゃないでしょうか?
そんな風に考えてみると、マーフィーの法則が働いているかのように見える状況が起こるのを防ぐことが出来る知識があれば、マーフィーの法則は働かないという事になるんじゃないですか?
だとしたら「マーフィーの法則」というものは、そもそも実在するものなのか?という話にもなってきそうですが・・・

かっさんは「マーフィーの法則」は実在すると信じていて、結局、何をやっても「マーフィーの法則」が働いてしまって、痛い目を見ることになってしまうばかりだ、という事を過剰に恐れすぎたりしてませんか?
それで、マーフィーの法則が働かないように、何事もほどほどにしろという話なんでしょうけど、それって、ずっと「マーフィーの法則が働かないで欲しい」という事を、過剰に期待し続けてるって事になりませんか?
だとしたら、「マーフィーの法則が働かないで欲しい」という思い入れが過剰になっているから、マーフィーの法則ばかりが働いてしまう状況から抜け出せなくなってしまっているって事はないですかね?
だとしたら、むしろ「マーフィーの法則が働くのは悪ではない!」みたいな考えで、あえてマーフィーの法則が起こりそうな事を積極的にやってみて「マーフィー起こりやがれ!私はもっと最悪な目にあいたいんだ!」みたいな態度を続けていたら、マーフィーの法則が働いて、マーフィーの法則が働かなくなってしまう、なんて事も考えられそうですね^^;
失敗し続けて、失敗する事にも失敗して、成功してしまう、みたいな感じ?(笑)
まあ、僕の感覚としては、マーフィーの法則というのは「実在する」というよりは、そういう法則があるんだなーと考える事によって、「何事も思い通りになるとは限らない」という事を学んだり、たとえ何かに失敗したとしても落ち込んでしまうのではなく「マーフィーのせいだよ」みたいに考えてユーモアに変えて笑い飛ばしてしまおう!みたいな目的で作られた法則のようなもの?なのかなと思ったりしますが・・・

それから、これは、もしかしたら残酷な突っ込みになってしまうかな?とも思ったのですが・・・

>でもこの世界では多分そういう人はいなくならないと思います。
けれども出会わなければ、いないのも同じなので、そういった人たちの生存権はみとめてあげた上で、そういう人たちをやりすごして快適に暮らしたい

「そういう人たちをやりすごして快適に暮らしたい」という期待の部分に、マーフィーの法則が働いてしまったら、そういう人たちが目の前に現れて快適に暮らせなくなってしまうんでしょうか?
・・・なんか怖いですよね(汗)
でも、ほとんどの人は「そういう人たちをやりすごして快適に暮らしたい」と思ってるでしょうけど、それでマーフィーの法則が働いてしまって、そういう人たちが目の前に現れて快適に暮らせなくなってしまった!という人も、ほとんどいませんよね?
そんな事を、あれこれ考えていたら、マーフィーの法則に共感する人を何が何でも増やそう!などと思ってたら、逆にマーフィーの法則に共感しない人が増えてしまった!という事も起こりそうだな、なんて思ってしまいました(笑)
  1. 2017/07/20(木) 16:09:10 |
  2. URL |
  3. ユインシュタイン #hVBOTS.Y
  4. [ 編集]

>自由研究ならばある種の作品、芸術作品と同じみたいな感じですね。

もちろん、平和の絵本をしているのは、芸術のためではなく、世界を変えるためです。それも含めて自由研究。

世界を変える。その方法は気づきを広げることで。理解させることで。
・・・でも、理解は人それぞれが自分ですること。無理やり理解させることなど出来ない。僕がすることは、示すだけ。僕に出来る限り、理解しやすい形で、提供するだけ。

それを利用するかしないかは、それぞれの人の選択。誰も読むことを選択しなければ、平和の絵本は静かに消えていく。

僕のテーマは錯覚。だから誰でも自分でその気になれば、気づけること。遅かれ早かれ、人類は気づくこと。
だから、僕が頑張っても・頑張らなくても、結果は変わらない。1万年後には、善悪の錯覚はそのメインの力を失っていると思う。少しは残っているかもだけれど、大きな問題ではなくなっていると思う。

ただその1万年を、僕はほんの少しでも早めることが出来るかも知れない。僕は、早めたい。そのために、絵本をかいてる。

早めたい、というのは僕の希望。だから、僕もまた、player。傍観者ではない。

大きな目で見れば、善悪の錯覚もまた学び、つまりは学校の教材なのかも。だから、それを傍観する立場はある。「がんばれよ~」と勉強を見守って。^^

でも僕は、そういう傍観者だと自分のことを思っていない。傍観するだけじゃつまらない。早めたいというplayerの一人だと思ってる。
  1. 2017/07/19(水) 11:44:10 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

自由研究ならばある種の作品、芸術作品と同じみたいな感じですね。
私は東郷さんが自身を教育者との理解?だと思っていたので。。。

つまり先生はお手本を示したりするので。。。その路線の話でした。
つまり先生は叱咤激励だとポジティブ?にとらえられるある種の平衡作用も、それに難儀している生徒の為には「こうすると上手くいくよ。」みたいなお手本です。

このことは東郷さんのおっしゃるメソポタミアから始まった、言わば誤ったタイプの重要性、思い込み過剰の問題に関係することだったので、お話しました。

ぜんぜん参考にならなかったかもですが。。。
  1. 2017/07/18(火) 18:01:15 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

>これはパラドックスですが「いなくならない」との考えによって、いなくなり、~~これが長々とお話しているマーフィー


こういうことは、確かにありますよね。「いなくならない」と諦めることで、手放せて、自然にいなくなる。
人種差別を巡る議論とか、何が何でも無くそうと力むと、いつまでも解決しないようなもので。^^


>つまりここは学校みたいな場所、空間なんだと。。。

そういう立場で考えるなら、僕は学校の生徒だと思っています。
平和の絵本は、夏休みの自由研究かな? ちゃんと真面目に仕上げようと。(笑)

マーフィの法則は、先生からの叱咤。逆マーフィの法則は、先生からの激励かな?

>そして自分の極性を選択することによって、

極性って、これが分からないです。何を選択するんだろう?
自分への奉仕と他者への奉仕、ですか? 僕自身では、あまり区別をしていないので・・・
  1. 2017/07/18(火) 13:28:49 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

>・・・って、難しくないですか?

難しいですが、でも東郷さんにはカンタンでしょう?(たぶん)

これはパラドックスですが「いなくならない」との考えによって、いなくなり、「いなくすることが出来る(ハズだ)」と考えることによって、いなくならない、というような事象についてのお話しで、これが長々とお話しているマーフィー、重要性ということですね。

>そういう人が存在する。 ・・・じゃ、どうしようって、考える。
つまりは、そういう人が無限に存在し続ければ、無限に工夫の余地があり、無限に学びの機会がある。
まあ、そんなに続かないかもですけど。(笑)

これはまったくそのとおりだと思います。
つまりここは学校みたいな場所、空間なんだと。。。

学校にはとうぜん目的があって、その為のシチュエーションが用意されてるけれど、それらが気に入らないからといって、なくそうとするのは。。。みたいな話です。

そして自分の極性を選択することによって、それがさらに捗るのかも知れないとは考えられませんか?
  1. 2017/07/18(火) 09:07:35 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

>自分のやりたいこと、好きなことを選択(特に魂?の快・不快によって)する場合には

・・・って、難しくないですか? これが出来る人って、本当に少ないと感じます。
心が分裂していたら、自分が何がしたいのか、コロコロ変わる。本当に何がしたいのかなんて、見えない。
心が麻痺していたら・抑圧されていたら、好きという感情すら、あるような、無いような・・・

>でもこの世界では多分そういう人はいなくならないと思います。

いなくなるかどうか、それって「結果」ですよね?
今、結論を出す意味って、何かありますか?

そういう人が存在する。 ・・・じゃ、どうしようって、考える。
つまりは、そういう人が無限に存在し続ければ、無限に工夫の余地があり、無限に学びの機会がある。
まあ、そんなに続かないかもですけど。(笑)

むろん、そういう人と無縁に、別の場で生きている人もいる。
人それぞれ活躍の場は違います。多様性が無ければつまらないです。
  1. 2017/07/18(火) 01:21:13 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

自分のやりたいこと、好きなことを選択(特に魂?の快・不快によって)する場合には東郷さんの説明は、当てはまらないのでは?

ともあれ、やっと反応がきた感じでうれしいです。(もっと聞かせて下さい)

ちなみに私はその無差別殺人?とか、そういうのがやりたくて生まれてくるひともいるんだと思う。東郷さんの言う表面的?には病気とかいうことになるのでしょうけれど。

東郷さんはそういった病気のひと?を助けて、そういう人のいない世の中にしたい、ひいてはそれが自分や社会を助けることになる、みたいな感じの方向性でしょうか?

私も実際かつてはそういった路線で考えていましたが、でもこの世界では多分そういう人はいなくならないと思います。
けれども出会わなければ、いないのも同じなので、そういった人たちの生存権はみとめてあげた上で、そういう人たちをやりすごして快適に暮らしたい、みたいな路線に変わってきたのです。

これはみんなそうなのではないでしょうか?
  1. 2017/07/18(火) 00:26:23 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

>それで自我の断片のような自分というのはどんなのでしょう?

例えば、絵本「負けるものか」では二つに人格が分裂していますでしょ? 失敗し続ける方法の中でも、自我が分裂していますよね。平和主義?では、怒りが抑圧されて、無差別殺人になっています。

無差別殺人をするほどに、抑圧された自分。 それも自我の断片かな。もちろん、もともと一つの心だけれど、その一部分(怒り)が抑圧されて、ある日、全人格を、一瞬だけ支配する。

けれどそうした一部の人格は他の人格との協調はなく、まさに断片のように働く。断片がした選択=無差別殺人。これも選択だけれど、その人の全体の人格としては、「本当は望まなかった選択」 
統合されていない、断片の選択。

>東郷さんは自我は離れるべきものとかいった認識なのでしょうか?

いえ。そういう発想は無いです。

>それとお話の境界線のない、なだらかな?非二元的認識は必須だと思われますか?

どうでしょう? 僕も道の途上の旅人ですので。^^ また違う景色が見えてくるかもしれない。

>東郷さんのおっしゃってる問題というのも、失敗?を繰り返したりしてるうちに、なんとかなるようにも思いますけれども。。。

はい。^^
  1. 2017/07/17(月) 22:41:16 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

なるほど。東郷さんだから統合さんで、名は体をあらわす。。。

それで自我の断片のような自分というのはどんなのでしょう?
東郷さんは自我は離れるべきものとかいった認識なのでしょうか?

それとお話の境界線のない、なだらかな?非二元的認識は必須だと思われますか?

東郷さんのおっしゃってる問題というのも、失敗?を繰り返したりしてるうちに、なんとかなるようにも思いますけれども。。。
  1. 2017/07/17(月) 21:28:32 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

僕が言ってた選択って、何の話か覚えて無いんですが。(^-^;)

何をどう選択するかと言えば、まあ好きなように選択するだけですが。

問題点を書けば、まずは選択する自分の問題。心が統合されているか。どこまで深い自分が選択するのか。
自我の断片のような自分がする選択は、長続きはしないですよね。

それから、認識の問題。錯覚に基づいた選択は、自分が望む結果をもたらさない。
認識には、未来予測もあるし、他人の心もあるし、見えないものはたくさん。どこまで錯覚かとか、なかなか分からない。
  1. 2017/07/17(月) 21:02:26 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

ふつうは逆ですけどね。。。(^-^;)
では東郷さんが言ってた選択というのは、何をどう選択するのでしょうか?
(批判とかじゃないですよ、くれぐれも)

この選択というのを主にスピ系で聞くようになって、たぶん普通の一般人には何がなんだか。。。だと思うのですね。

つまり「幸せになりたければ、そうなれば良いではないか。」みたいな感じで。

だから真剣に選択したつもりでも、出てくるのはマーフィーばかりなり。。。みたいな。

そういうことを問題にして、色々いってた訳なんですけど。。。。
  1. 2017/07/17(月) 16:44:33 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

>思ってるんじゃないか?とか、そんな感じのことを言ってるんでしょうか?

まさかです。(笑)

僕が難しいんですよ。僕の中で、自己への奉仕と他者への奉仕の区別があまりないんです。だから認識するのが難しい。

自分は全体の一部だし、全体は自分の中にあるし。自己と他者にはっきりとした境界線などはなく、なだらかに続いている感じかなあ? どこに焦点を当てるかということはもちろんあるけれど。

茫洋と大きく感じている一つの世界を、一度、意識して自己と他者に分けてからじゃないと、かっさんの議論についていけないんです。^^;;
  1. 2017/07/17(月) 15:07:59 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

どっちが好きか?やりたいのはどっちか?
更にいえば、魂?の快・不快とかですかね?

この場合、他人の極性を判断するのは不可能、というか不適切でしょう。

ずいぶんと表面的とか本質的だとかに拘ってる感じですけど、もしかして自己への奉仕、それは間違い、あるいは悪だと、私が思ってるんじゃないか?とか、そんな感じのことを言ってるんでしょうか?
  1. 2017/07/17(月) 14:30:04 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

優しさと残酷さのお話はよく分かりますね。優しさだけなら、誰でも主張できます。^^


>極性化は区別ではなくて「選択」です。東郷さんも常々言ってたじゃないですか、選択の問題だと。。。つまり、自分の極性は、意識しないと弱まる感じなんですよね。


これはつまり、「自己への奉仕なのか、他者への奉仕なのか」は、区別することではなく、選択すること、という意味ですね? しかもそれは、決して本質的なことではなく、ある意味、表面的な選択であると。ほとんどの人は、表面的なところで生きているからと。

なるほど。^^
  1. 2017/07/17(月) 12:05:02 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

>「俺は神に奉仕している!」なんてのも、ありそうですね。(^-^;)

等価性でいえば、みんなが奉仕(特に自己への徹底した奉仕は創造主?に貢献度が高いと思う)してると言えますけど、東郷さんの場合、個人としてはかなり並外れた(傑出した)データ提供をしてると思われますよ。

絵本で説明してることは、この世界のあらゆることを自分の心?の中に顕在化させる努力をしていないと書けない内容だし、その場合、両極を顕在化させなきゃならないですからね。

つまり東郷さんや私が「優しさ」を顕在化させるのは楽でも、その対極である「残酷さ、残忍さ」を顕在化するには、臭いモノに蓋してたら出来ないですから。
そのかわり、これをやると(キツイですが)世の中のことがよくわかってきますよね。

瞑想ってそういうモノかな?と、思いますけど、こういった事がたぶん極性化が必要なことと関係してるような気はします。

ただ東郷さんは誤解しているけれど、極性化は区別ではなくて「選択」です。
東郷さんも常々言ってたじゃないですか、選択の問題だと。。。

つまり、自分の極性は、意識しないと弱まる感じなんですよね。
  1. 2017/07/15(土) 16:35:38 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

理解させることは出来ないけれど、読者に理解させるために、出来るだけ工夫する。けれどその工夫に錯覚・洗脳は使わない。
・・・そんなところを意識してるかな。

自己への奉仕なのか、他者への奉仕なのか。それを区別することって、そんなに本質的なことかなあ? というより、表面的だけれど、かっさんがおっしゃる通り、重要なことかも知れませね。
「俺は神に奉仕している!」なんてのも、ありそうですね。(^-^;)
  1. 2017/07/15(土) 11:38:47 |
  2. URL |
  3. 東郷 #qoLMz.1o
  4. [ 編集]

> ともあれ、「理解ではない」現状を変えようとすることも可能なわけで

ここで大分ずれちゃいました。^^;

意識して軽い気持ちで読んで欲しいのですが。。。<(_ _)>

むかし東郷さんと、「ひとは自分で自ら理解したいと思っていて、ひとから教えられたくないのかも…」みたいな話をしたことがありましたけど、そのことを今は納得していて、つまり人間は自分の経験、体験が希薄になってしまう様な事をされると不本意なので、そのことに対するガードみたいなのが予めプログラムされていて、そうされそうになるとブロックして弾くようになっている、のではないかと。。。

東郷さんも御存知のとおり、理解は内側からやってくる(しかやってこない)ものなので、理解することは出来ても、理解させることは出来ずに、大抵は誘導とか洗脳とかになったりします。(情けは人の為ならずの2つ目の方)

そしてそれらは操作、コントロールに関するものなので、極性で言うと自己への奉仕の路線になり、そこでは例の重要性の問題が出てマフィーが出たりしますね。

つまり、絵本を書くこと、製作に関しては逆マーフィーでも、それを読んで貰うことにはマーフィーが出る、みたいな感じですね。

教育というのもありますが、その場合、生徒の面倒をみることが義務、責任としてセットになりますから、絵本の製作と両立させるのは難しいけれど、芸術家には責任とか義務は無いんですよね。個人的な表現な訳ですから。。。

けれども、芸術作品が人間の考え方や行動や理解に多大な影響を与えている例は枚挙に暇が無いですから、そんな感じで以前から「東郷さんの芸術作品」みたいに言っていた訳です。

それから第三密度というのは旧来から三次元とか言われていた表現が定義もアヤフヤでわかり辛いから、密度、周波数の違いみたいな表現です。

たしかに自己への奉仕と他者への奉仕はつながりますが、それは第三密度ではなく、第四第五。。。第六密度あたりのことで、今は2つの内のどちらかを選択することが重要だと思われます。

東郷さんとは長い付き合いですので、私の話は東郷さんに意見する為、とかではない事を理解して下さる可能性が高いと判断し、色々書かせて頂きました。
  1. 2017/07/13(木) 18:17:49 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

かっさん、

>部分的事柄の中には絵本の参考になるモノもあるのでは?と、思ったので、一応の全体像(かなり省略してますが)を書いてみました。

ありがとうございます。<(_ _)>

>だから結局は自己への奉仕は他者への奉仕へ、他者への奉仕は自己への奉仕につながるものと言えますけれど。。。

絵本のテーマとしては、これが書けるかなあ、と考えていました。

>東郷さんの言ってることは、仏教に凝っていた私にはよくわかるし、その体験もありますけれど、それはこの現実物質世界、第三密度の理解ではない。

第三密度って、知らない言葉です。^^; ともあれ、「理解ではない」現状を変えようとすることも可能なわけで。つまり、自己への奉仕と他者への奉仕はつながっているという事実への理解を、現実物質世界にも広げること。これって絵本のテーマになりうるなあと。^^
  1. 2017/07/13(木) 12:26:39 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

ずれてないですよ。^^

ことわざに「情けはひとの為ならず」というのがありますけど、これには2つ意味があって
他者のためにする奉仕は、結局は自分に帰ってくるので他人の為ではなく結局は自分の為の奉仕となる。。。とかいった感じのと
もうひとつは、情けは必ずしも良い結果を生むわけではない、場合によっては愚かな行為となる。。。みたいな感じで、必要とされてるひとに必要な奉仕を。。。とかいった意味合いですかね。

だから結局は自己への奉仕は他者への奉仕へ、他者への奉仕は自己への奉仕につながるものと言えますけれど。。。


自己への奉仕は極限的な賢さ、能力を目指す大変厳しいイバラの道なので、その為には95%利己的でなければならないとされます。

一方、他者への奉仕は約半分以上(51%以上)利他的でなければならないとされ、これは自己への奉仕を頑張ってる人たちのいる中では、妥当な数字だと思います。

普通の人間は、この2つの極性の間で行ったり来たりしているわけですね。

東郷さんの言ってることは、仏教に凝っていた私にはよくわかるし、その体験もありますけれど、それはこの現実物質世界、第三密度の理解ではない。
そしてそれ(意識を広げる路線?)は能力の分野でもあるので、あまり凝りすぎると49%を超えてしまうことになるかもしれません。

第三密度では、そこでしか出来ないことがあり、東郷さんの言ってる境地?に立っている様な人たちは、反対運動や、行政機関・政府の配置変えよりも、思いやりの調和路線の方が現実に影響を多く与えられることを知っているので、その路線(51%以上他者奉仕)で面白おかしく生きているでしょう。

必要な人に必要な奉仕を、といった観点からは、今回の私の話は今の東郷さんにとって必要ではなかったかも?ですが、部分的事柄の中には絵本の参考になるモノもあるのでは?と、思ったので、一応の全体像(かなり省略してますが)を書いてみました。
  1. 2017/07/12(水) 18:35:23 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

自己への奉仕、他者への奉仕ですが、突き詰めていくと、自己って何?にも行きそうですね。^^

話ずれるかもですが。自分って、どこまでが自分なのか。 

自分の肉体の肌までを自己と感じることはできますね。それを意識の中で広げれば、部屋の中まで広げられるし、もっといくらでも広げることは出来る。肉体の境界線は、意識の境界線ではないです。

自分の子供のために何かするとき、それは他者(子供)のためであり、自己のためでもある。

災害ボランティアの人の中には、被災者の痛みを自分の痛みと感じている人もいる。痛みは誰のものか?

僕が平和の絵本をやっているのは、自己のためなのは間違いないけれど、他者のためでもある。自己への奉仕なのか、他者への奉仕なのか。区別はできないかな。

やりたいことをしているだけで、その意味では自己への奉仕だけれど、世界平和への願いというのは、そもそも僕一人のものではないし。僕がそういう気持ちになったのは、大勢の人たちの影響が当然あったわけで。他者の願いと共振しているから、他者への奉仕?

でも、かっさんがおっしゃってるのは、ちょっと次元が違う話なのかな? 話がずれちゃいましたね。^^;





  1. 2017/07/12(水) 11:41:50 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

そしてここから先日話した奉仕の話に入ってくるのですが、奉仕はその人の本当にやりたいことが関係していて、それは持って生まれたその人の本性?に忠実(正直)になる必要が先ずあって。。。

他者への奉仕と自己への奉仕の2種類ある中で、わかりやすく言うと自己への奉仕路線とは能力追及(インチキも含む)路線であり、自分ひとりでは出来ないことも他者を操作し、その力を利用することによって達成するといったこと等が社会性のなかでは重要ポイントになっています。

一方、他者への奉仕は思いやりと調和路線なので、互いに奉仕しあうから大きな事業も協力して比較的カンタンに達成できますが、ここでは自己への奉仕を追及してる人たちが居る(つまり操作)なかでそれをやるところがミソで、私が今回話してるのは要するにこの他者奉仕路線を本性とする人達が、それに反して自分の道ではないものに価値、魅力を感じてしまい(操作によって)本来やりたいことではないことに思い入れ(手ごたえがないからどうしても過剰になる)したりしていること等に関するものです。

逆に言うと自己への奉仕の人は自分の本性に忠実にやりたいことをしているからマーフィーは働かないのかもしれません。
  1. 2017/07/10(月) 16:36:59 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

逆マーフィーに関しては、東郷さんの返答はもう決まっているので節約(私が説明)して先に進みますが、まさにこのことが本当にやりたいことを見つけ、それをやってる人の特徴と言えますね。

けっきょく世間的な名誉だとか余計なことに気を取られてたり、他人の話や指示に従ってマネ?したりしているうちは本当にやりたいことは発見できないので「それはオマエにとって重要ではないぞ」とかいってマーフィーが発動して、逆に発見すると「そうだ、それだ!」みたく逆マーフィーとなってそれがワカル、みたいな法則が働いているのかもしれないですね。

要するに人それぞれ、その人にとって重要なことがあるけれど、それをわかりやすく一本化しようとする、その路線が罰や禁止や制度化等で、それに賛同させるエサとして使われる「例の快楽」は、本当にやりたいこと、その人にとっての重要がわからず、不足感みたいな状態にある人たちには大変よく効くので、なかなかそれを拒絶することはできないんでしょう。

話を戻すと、恋愛とかにおいて「この人じゃなきゃ絶対ヤダ!」みたいなのは、ある種の病気みたいなものだと思うけど、そういった経験も大人になるのに必要だし、「アバタもエクボ」的な目隠し錯覚作用に気づくことも意味あることですが、少なくとも本当に自分がやりたいことと関連づけたり、追求したりすることが必要で、思い込みや自身の重要性(偽の?)に気づいたり熟考することが他者との関係(つまり平和)理解につながると思います。
  1. 2017/07/10(月) 13:33:02 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

>制度化、禁止の話は何だろ。
なんとなく差別のイメージかな?
人種差別や性差別、あるいは障害者の方とか当てはまるイメージかなあ? 
差別禁止を制度化して、言葉狩りをして。
もしそれを過剰にやれば、かえって差別は永続化する。 ・・・やっぱり俺は嫌われてると被害者意識を強くする、とか? でも倫理的には優越しているとか。

この差別イメージが先日話したエリート(優越意識)で、それは気持ちいい快楽だなので、そういったモノへの強い誘惑があって(これは東郷さんの絵本の「失敗し続ける方法(受験篇?)」とかにも入ってますね)それが上記の路線の波及に拍車をかけるという訳ですが、話を戻すと、このエリート優越意識っていうのは要するに「自分は重要人物」とか「自分は重要な仕事をしている」とかいった重要性問題路線の話だった訳ですね。

つまり自身を成長させたいとかならまだしも、他人を使って(犠牲にして)まで自己肯定、その快楽を得たい為に他者を利用するのは明らかに過剰だと。

>絵本を描くことに関してだけは、「逆マーフィの法則」が働いているような気もしています。^^

あと、これをもう少し詳しく説明していただけますか?

上記の失敗し続ける方法の絵本集を製作中に冗談で、「失敗し続けて、そして失敗することにも失敗した結果、成功してしまう。」
http://peaceactivity.blog50.fc2.com/blog-entry-741.html#comment

これがけっこう暗示的だったなと思う今日この頃でした。
  1. 2017/07/10(月) 07:08:45 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

かっさん、ご説明、ありがとうございました。
好きすぎてうまく行かない、というのは、恋愛関係を連想しました。好きすぎて、嫉妬深くなり、独占したくなり、束縛しまくって、嫌われるなんていうのは、よくある話ですよね~
恋愛に限ることでも無いでしょうけど。

制度化、禁止の話は何だろ。
なんとなく差別のイメージかな?
人種差別や性差別、あるいは障害者の方とか当てはまるイメージかなあ? 
差別禁止を制度化して、言葉狩りをして。
もしそれを過剰にやれば、かえって差別は永続化する。 ・・・やっぱり俺は嫌われてると被害者意識を強くする、とか? でも倫理的には優越しているとか。

>それから、新しい?罰と恐怖の絵本集の目次の頁みましたけど、こうしてみると名作の目白押しですね。

ありがとうございます。^^
マーフィの法則のお話がありましたが、絵本を描くことに関してだけは、「逆マーフィの法則」が働いているような気もしています。^^
  1. 2017/07/09(日) 22:01:15 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

補足ですが

>それをし易くする為に色々と禁止や制度化したりなんかすると邪魔されずに快楽にひたることが出来る

これの実現の為に、自己卑下(そうしてる自分は他の人よりマシ=偉い)路線の人達も貢献することになっていて、そうなってくると、たとえ制度化禁止とかまでいかなくても、けっこうな勢いで波及してしまうというのがあって、これについては「誘惑」とかいった問題とも言えましょう。
  1. 2017/07/09(日) 09:05:13 |
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  3. かっさん #E9/Ef2VQ
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大事にしすぎてそれを失う、好き過ぎて、嫌いすぎて上手くいかない、わかって欲しい、認めて貰いたいとの思いが強すぎて、かえってみとめて貰えない事態、とか色々ありますけど、要するに自意識過剰傾向というのがあって(つまり初心者みたいな感じ)ひとそれぞれ重要だと思うことは違っていても、その重要性が過剰になることによって、その人が避けたいと思う事態(マーフィー)になってしまう、みたいな話しです。

だから余裕があれば、経験をつめば、押してもだめなら引いてみたりと色々工夫したりするようになるので、昨日はそんなことを話したつもりでした。

平和に関しては、それぞれの重要性が見かけ上だけでも対立、矛盾したりしてる場合にけっこう悲惨な不幸が展開されたり、その原因になったりするなと。

そしてそういった重要性は優越感みたいなのと密接な感じで(この場合その反対の自己卑下なんかも同根な感じで、つまりマイナス符号がついた優越意識みたいなのがある)そこでは異質な相手にイジワル、腹いせ、仕返し、後悔させて償わせるみたいな優越者にとって気持ち良い!とかいう快楽中毒路線が展開されて、それをし易くする為に色々と禁止や制度化したりなんかすると邪魔されずに快楽にひたることが出来る、みたいなのは不幸としか良い様がない、とか思った次第です。

それから、新しい?罰と恐怖の絵本集の目次の頁みましたけど、こうしてみると名作の目白押しですね。
  1. 2017/07/08(土) 16:18:26 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

かっさんが送って下さったミニディスクとお手紙、今でも大切に保管しています。^^
今見たら、H.18.6.15とありました。もう11年前になりますね~
昔からお世話になっています。<(_ _)>

>この分野の過剰問題による不幸さ加減

僕は、かっさんが何についてお話しされているのか、いまいち理解出来ていないような気がします。
もう少しご説明をお願いできますか?

それから、罰と恐怖の絵本集の目次の頁を少し書き換えました。
http://www.j15.org/Punishment/index.html

「罰と恐怖の絵本集」というタイトルを書き換えるのは手間なので、罰との関係性が薄い恐怖は対象外と明記したんです。
  1. 2017/07/08(土) 12:19:06 |
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  3. 東郷 #-
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認識論にはおばけ煙突の他に妄想というのもありますね。
10年ぐらい前、東郷さんに昔の歌謡曲を録音したのを送ったことがあるでしょう?
あれなんかはまさにその世界、妄想の世界ですな。

主に宗教的概念や美学とかが根にある感じの思い込みだと思いますけど、この妄想分野の難しいところは、これによって身を守られるような自体も大いにありうるので、罰と似たような面もありそうですが、こっちは更にきめ細かいというか微妙な分野っぽいんですよね。

けれどもこの分野の過剰問題による不幸さ加減は、平和にとっては無視できないものがあって、避けて通れないものがあるとは思っております。

ただ難しくはありますが、錯覚と違って「ぞっとするような理解能力のなさ」の人たちでも、バランス感覚さえあれば理解というか、体得でき易いと言えるのかもしれないですね。

つまりマーフィーの法則みたいに「こうなって欲しいのに!こんな時に限って、なんでこんな風になるんだよ!」みたいな、みんなが感じている感覚、パターンを逆手に取る感じで応用する、みたいな方向性が考えられますね。
  1. 2017/07/07(金) 23:18:55 |
  2. URL |
  3. かっさん #E9/Ef2VQ
  4. [ 編集]

今、見直しているのですが、「罰と恐怖の絵本集」を「罰に関する絵本集」と変更するかな、と考えています。
恐怖は、ほとんどすべての平和の絵本の底流に存在することです。平和の絵本のテーマは錯覚ですが、ほとんどの錯覚の底には、当然、恐怖があるのですから。

「罰」とだけ言えば、ここまで書いた「罰と恐怖の絵本集」の中の22本は、全部、入るし、学歴主義やリア充で認識が歪む話は(子供への認識が歪んだ結果、罰の副作用が生まれる)、このシリーズではなく、認識論シリーズに持っていけるかなあ、と。 認識は恐怖で歪みますが、そこまで書くと収拾がつかなくなります。

絵本集の名前を変えるとなると、22本の絵本の全頁をイジル必要があり(「罰と恐怖の絵本集」と表示してあるので)、ちょっと大変なので、あと2~3日は迷ってみます。^^
  1. 2017/07/07(金) 14:28:03 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

う~~ん、かっさんは難解なテーマを投げかけてくれるなあ!^^;;

難しいなあと感じるのは、絵本集全体の中での構成作り、位置づけなんです。もともと心の中の話。分類や体系とは無関係に発展している話です。
それを分かりやすく提供するためには、ある程度、体系化したい。初めの頃はテーマの重複も避けるようにしていたのですが、このごろは、ある程度の重複は仕方ないと考えています。

生みの苦しみのご指摘の通り、今回の「罰と恐怖の絵本集」の中でも、何を書いて書かないのか。ここで苦労しています。
もともとは刑罰の副作用を描きたかったんです。けれど、どうしても恐怖というキーワードが必要かなと。罰がここまで有効なのは、もちろんそれが恐怖を生むからです。そこで罰と恐怖とした。

それでも、副作用としては、罰ばかりを書いてきたのですけれど、より深くなってくると、罰というよりは、恐怖の副作用と言わないとなあ、と。同じ罰(叱る)でも、副作用のある場合、無い場合を分けないとと考えたのです。それが今回のものです。

さて、かっさんが書かれた学歴主義とか、リア充とかのお話。絵本としては十分にアリです。ただご指摘を受けて、こういうテーマの絵本は、「罰と恐怖シリーズ」ではなく、むしろ認識論に入る内容かなと感じました。学歴主義の中身を見ると、学歴が無いと生きていけないという不安、恐怖。その不安や恐怖で認識が歪むということで、認識論かなと。

認識は恐怖で歪むぞ、というのは大切なポイントです。(認識論は、お化け煙突の絵本のグループです)

じゃあ、なんでそんな話をかっさんがしたのかなあ、と考えると、「不安や恐怖で認識が歪む」のだから、あ、そうか、これも恐怖の副作用じゃないかって気付きました。
恐怖の副作用ということを考えると、「罰と恐怖の絵本集」の範囲は、確かに、リア充や学歴偏重まで含みますね。

もっと考えると、平和の絵本の、ほとんどすべてが恐怖の副作用をテーマにしていると言えなくもありません。善悪の錯覚の底にあるのは、恐怖です。
・・・じゃあ、どこまでをこの「罰と恐怖の絵本集」の範囲に入れるのか。

基準が自分でもいまいち見えなくなりました。^^;; やばい。

考えま~す!!<(_ _)>



  1. 2017/07/07(金) 13:40:07 |
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  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

拝見しました^^

これは思い込み過剰関係を描いたというよりも、「人を見て法を説け」的な教育論的アドバイス路線な印象ですけど、具体的になってくると変な人たちに突っ込まれやすくもなるし、東郷さんの気持ちもわかるんですが、せっかくのユーモアセンスを犠牲にするのはもったいないかなと。

それにはいつものシチュエーション舞台装置(他の星の話だとか)や「言いたい事はわかるけど、じゃあどうすりゃいいの?」みたいなのでもかえってアリだと思います。

この分野(思い込み過剰で上手くいかない)は誰でも必ず経験している(恋愛とか)と思われますから。

具体的には左右の父親の思い込み過剰具合の違いを際立たせる為に、両者の背景(片方は学歴主義で余裕なし、一方はリア充で子供も自分でやりたい事を決めてほしいが、まだ子供なのでその為の選択肢は多い方がいいから云々)の違いとかを、持ち味であるブラックユーモアで思いっきりデフォルメさせたりして欲しかったですかね。

でもまあ言うは易し、行うは難しで、なんというか、生みの苦しみ的試行錯誤みたいなのを感じました。
  1. 2017/07/06(木) 20:27:55 |
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  3. かっさん #E9/Ef2VQ
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