私ども平和の絵本の、日々の活動日誌です。

憎しみ 怒り など:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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私どもの平和と癒しの運動の、日々の活動日誌です。

憎しみ 怒り など


相変わらず、考え中。

今、考えているのは、
憎しみと怒りと復讐心と恨み。 ・・・どう異なるのか? 

この違いを理解することは、きっと、とても重要なのだ。
異なるものを、同じものだとして扱えば、いうまでもなくグチャグチャになる。

・・・むろん、どれも似た感情ではある。たとえばネットで、「怒りや憎しみにどう対処するか」などと書いてあるWEBはいくらでもある。中には、心理カウンセラーといった専門家も。つまり、怒りと憎しみは、ほぼ同じものとして扱われている。


けれど僕は、「怒り」と「憎しみ」は、かなり異質なものだと考えている。
一例を示そう。

足を踏まれて怒る。  ・・・素直に読める。
足を踏まれて憎む。  ・・・若干の違和感がある。

いかがだろうか?

この違和感はどこから来るのか? そしてそれはなぜ? 
さらには、善悪との関係。世界平和達成への応用。絵本へどう落とすかなど、考えることはいくらでもある。

色々と新しい発見もあり、楽しい。^^
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  1. 2016/09/14(水) 12:46:08|
  2. 日誌|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:5
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コメント

ぜひやって^^

さぬきさん、読んでいて、とても勇気づけられました。ありがとうございます!(^^)/


>僕がもし 先生くらい錯覚解いてて、 で学校の先生なら、 道徳ののりで和学を授業で生徒たちとやりたいなあて思いました 和の学問。 平和学。


これを読んでぜひやって欲しいな~って思いました。^^
そのために僕の絵本は全てコピー自由として、プリントアウト用のPDFファイルもダウンロードできるようにしているんです。
学校の先生じゃなくても、家庭で自分の子供相手でも出来るでしょうし。

世界中、あちこちで、僕の絵本を叩き台にして、錯覚について勉強するサークルができたらなあって、それは僕の夢です。


>身内をぶっ殺された。とかに見舞われると絶対その殺した相手を永遠の敵/悪まずしますよね。 先生だったらいないでしょうけど(笑)


ああ、これは無いですね。むろん家族が襲われたら戦うけれど、殺されてしまったとして、ずっとその相手を憎むことは無いですね。
憎み続けるって、苦しいし。^^;

>僕は愛とはもっとシビアな感情(状態・存在)だと思ってます。

ええ、現実の愛は、現実に根差している。現実(相手の心も含んで)をあるがままに認識するのが前提。
ここの部分は、かなりシビアかもですね。


>いやしっかし先生錯覚ってのはまるでダークマターのように俺ら地球人の生活、文化、慣習、常識の中に潜んでますね。 意識の暗黒物質です錯角ってやつは 認識のダークマターを視覚化させていくことができれば世界平和なんてきっと楽勝ですよ。


さぬきさん、そこまで見えているんですね! 嬉しいです!!^0^
僕も楽勝だと感じていて、・・・そうすると逃げれなくてさ、まあ自分の運命なのかなと思って、ダークマターの視覚化作業を続けています。

大きく見ると、人類に錯覚を利用する癖がなければ、ここまで錯覚は入り込まない。
錯覚に頼る癖の底には自己不信があるでしょう。
つまり、錯覚を使って無理やり自己コントロールしないと、ちゃんと出来ないという人類の自己不信。

そしてその原因となった善悪二元論は、きっと約4000年前から。
つまり錯覚って、4000年間もの積み重ねの歴史がある。だからこそ、これほどまでに、あらゆるところに潜んでいる。



>もちろんそこまでは数百年と長く、

ええ。もし数百年で「錯覚に頼る心の癖」→「錯覚に頼らないように」と方向性を変えることが出来たら、それは凄いですよね。

今日も、怒り・憎しみ・理解とか、善悪との関係とか、そんなことをずっと考えてました。
さぬきさんがご指摘の通り、憎しみの対象との距離感も、すごく大事だよなあって。^^

@憎しみの相手は、自分に害をなそうとする性質(属性)を持った、いわば敵/悪であり、自分の近くにいる。憎しみは、そんな相手の性質に対応して発生する、相手への持続的で攻撃的な感情。遠ざかれば、消える。遠ざかれないときには、なんらかの事情があり、そこに錯覚があることも。 害を無そうとすることに、理由はない。それは相手の性質。 ・・・ただし、これは主観的な話。 「相手の攻撃性に理由は無くてそれが相手の性質だ」というのは、自分の主観であり思い込みであり、客観的な事実をいうものではない。客観的には、それは錯覚。性質としての敵/悪など、現実世界には存在しない。


こんな感じかな?^^
  1. 2016/09/23(金) 15:47:51 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

さっき投稿した文読み直すと誤字まみれですね
すみません(謝)

僕がもし
先生くらい錯覚解いてて、
で学校の先生なら、
道徳ののりで和学を授業で生徒たちとやりたいなあて思いました
和の学問。
平和学。

「…この問題の中でダークマター
どこに在るかわかる人いる?
いたら手を挙げて」
ですよ。
先生みたいにオリジナルの絵本家で作ってそれテキストにして。
俺もまあ絵は先生みたいに下手ウマですよ(笑)(失礼)
…絵のクオリティはまあ俺なりに、でいい
大事なのは問題の中身です

数学みたいにいろんな錯覚
解かしていく。

「道徳」みたいに週に一回とかでええんで「平和」を生徒たちに教えれないものか。。
まあ現実的に考えると教科化はまず無理でしょうから、
ホームルームとかの時間くらいしか話できないでしょうけどね
僕が先生くらいの認識があったら
こと錯覚に関しちゃ免許皆伝なら、
先生やってたら和学勝手に生徒たちに教えたいです! まじで
文部省から許可や認定おりんならおりんで、
勝手におっ始めちゃいます。
だって文部省でいろいろな決定権持ってるオッサンたちの頭もダークマターでいっぱいだもんね(笑)
ハナからオッサンらには期待してないっす。
でも目の前の僕の生徒たちには期待してます。
僕は信じてます。
…もちろん全員に届くってことはないだろうが、、
中には授業を通して和と響き出すような子もきっといる!と。
その子の和が輝き出したら、
その子が人生で出会っていく様々な人たちの中の和だって輝く可能性を秘めてます。
ほら、人生ってハーモニーですから。
宇宙は神のハーモニーから創られました。
そういう子を僕が東郷先生みたいな錯覚の師範代クラスの実力者ならつくりたい おわり
  1. 2016/09/20(火) 14:51:09 |
  2. URL |
  3. さぬきクン #-
  4. [ 編集]

「さて、相手が敵であれば、離れれば楽になりそうですが、そこには執着があって、距離を取れない。離れられない。 ・・・この執着を愛と呼ぶのは楽なのだけれど、もっと突っ込むとおそらくそこにも錯覚があるような・・・

そんなことを考えています。」




…お返事ありがとうございます。
愛って言うが易し 成るが難し だなあとお返事みて思いました。
在るが難しでもいいな

僕将棋に強い関心があるのですが、
人という駒も成れば神(愛)となる。
将棋でいう「敵陣」は、
「無条件」
ってとこでしょうか?
んなこと思いました。
僕も抑圧した強烈ば感情だか欲望を長らく抱えてて、
「こんなの全然愛じゃね~わ」って思ったものです。
愛が失われたり、
損なわれてしまったり、
変化したのではなく、
最初っから愛でもなんでもなかったものなんじゃないかって

僕は愛とはもっとシビアな感情(状態・存在)だと思ってます。
巷に溢れる大半の「愛」。は錯覚まみれのまがい物だと思ってます
三匹の子豚の
長男豚や次男豚の何かが起きたら簡単に壊れる感情。
僕が手に入れてきた感情たちもそう。
末っ子豚なら錯覚に縁のない愛。
を心に建てれると思う
僕も生きている間に
そういう無条件や永遠を心の中に建てたいと思う
目指せ末っ子豚!ですね(笑)






「僕は、怒りは、何らかの出来事(足を踏まれたとか)に対応する感情であって、それは発散されれば消える(痛いな!と怒鳴るとか)もの。
一方で、憎しみは出来事に対応するものではなく、相手に対するネガティブな認識(こいつはずうっと敵だ、悪人だ、自分を傷つける存在だ)から生まれるもので、相手への認識から来る感情ゆえに持続的であり、一度発散したから消える、というものではない、と。そして、この相手へのネガティブな認識にはきっと錯覚が含まれている。永遠の敵/悪なんて、存在しないので。」





身内をぶっ殺された。とかに見舞われると絶対その殺した相手を永遠の敵/悪まずしますよね。
先生だったらいないでしょうけど(笑)
錯覚のマスターなんで。
もうクリアしてる人なんで。
でもまあ世間の
いやこの地球の大半は錯覚をベースに人生生きてるんで、
殺した相手を永遠の敵/悪まずしますよね。

男と女の「愛」に絡めて僕読みましたが、
僕が人生で憎しみを覚えてしまったのは「愛」ゆえになんで。
でも身内を殺されたら。。
も連想しました

自分の大切な人を殺された、
相手に対するネガティブな認識(こいつはずうっと敵だ、悪人だ、自分を傷つける存在だ、自分の家族を傷つけた存在だ)
「愛」ゆえに「犯罪者」を憎む。

東郷先生や平和の絵本読んでなきゃ当たり前に聞こえますが、
この「犯罪者」を憎む「愛」この認識も錯覚で、
眼差しを勇気を持って一度解体することで
救いや開放ってのが生まれる
始まるのかもな 
そんなこと思ってます

いやしっかし先生錯覚ってのはまるでダークマターのように俺ら地球人の生活、文化、慣習、常識の中に潜んでますね。
意識の暗黒物質です錯角ってやつは
認識のダークマターを視覚化させていくことができれば世界平和なんてきっと楽勝ですよ。
もちろんそこまでは数百年と長く、
いろいろあるでしょうけど
カキコしててちょっと勇気や元気出てきました。
僕の中の大和の心が隆起しております(笑)
先生ありがとう


  1. 2016/09/20(火) 14:13:23 |
  2. URL |
  3. さぬきクン #-
  4. [ 編集]

さぬきくんさん、お久しぶりです。^^


>怒りは瞬間的な反応(感情)であり 憎しみは持続的な反応(感情)である。

全くその通りだと思います。さっすが、素晴らしいです!^^ 
ややこしいことに、心の中に抑圧された怒りは、抑圧された怒りであって、それはきっと憎しみではない。

僕は、怒りは、何らかの出来事(足を踏まれたとか)に対応する感情であって、それは発散されれば消える(痛いな!と怒鳴るとか)もの。
一方で、憎しみは出来事に対応するものではなく、相手に対するネガティブな認識(こいつはずうっと敵だ、悪人だ、自分を傷つける存在だ)から生まれるもので、相手への認識から来る感情ゆえに持続的であり、一度発散したから消える、というものではない、と。そして、この相手へのネガティブな認識にはきっと錯覚が含まれている。永遠の敵/悪なんて、存在しないので。

さて、相手が敵であれば、離れれば楽になりそうですが、そこには執着があって、距離を取れない。離れられない。 ・・・この執着を愛と呼ぶのは楽なのだけれど、もっと突っ込むとおそらくそこにも錯覚があるような・・・

そんなことを考えています。

  1. 2016/09/18(日) 14:28:35 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

東郷先生お久しぶりです。
自分の経験上での認識では、
怒りは瞬間的な反応(感情)であり
憎しみは持続的な反応(感情)である。
と僕は思ってます。

そして憎しみには、
何かしらの執着があるからこそ、
生まれてしまうと。

僕が人生で経験したのは愛情が変質して生まれてしまった憎しみです。
執着が強いほどにかつて愛と呼んでいたその感情は心の中で焦げてしまい
自分自身をも苦しめ
精神的に圧迫され続けます。

平和の絵本がまた生まれてくる日を
僕は心から楽しみにしてます。
以上です
  1. 2016/09/16(金) 15:29:13 |
  2. URL |
  3. さぬきクン #-
  4. [ 編集]

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