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刑法上の責任能力を巡る雑感:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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刑法上の責任能力を巡る雑感


ウィキペディアには、こうある。

刑法上の責任能力
刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力のことである。責任能力のない者に対してはその行為を非難することができず(非難することに意味がなく)、刑罰を科す意味に欠けるとされている。

そして、責任能力が無いものとして、子供とか心神喪失を例としてあげている。

善悪中毒の視点で、この定義に突っ込んでみると、「事物の是非・善悪を弁別し」でまず引っかかる。ここでいう善悪とは、何を意味しているのだろう? まず単純な感想として、僕自身は、事物の善悪を弁別する能力があるんだろうか?と。^^;

ともあれ、善悪というのは、絵本で何度も描いたように、「善をしろ。悪をするな」「善を愛せ。悪を憎め」という命令であり、誰が命令者かは、それだけでは不明だ。

そこで是非・善悪という言葉を抜いて、「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力」を、僕が理解できる言葉で書き換えてみると、「事物に関する、命令者が不明の、しろ・するな/愛せ・憎めといった命令を弁別し、かつそれに従って行動する能力」となる。

命令者が不明の、しろ・するなという命令の弁別とは何だろう?

命令者が神であるなら、その命令の存在に気付けるかどうかは、かなり特殊な能力だと感じる。 もし命令者が安倍政権なら、従わない方も多いだろう。 命令者が学校の先生なら? 親なら? 刑法なら? それが憲法と矛盾していたら? クリスチャンと仏教徒の命令者は、異なるかも?

もう一度書く。

刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力のことである。 ➡ 刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物に関する、命令者が不明な命令を弁別し、それに従って行動する能力のことである。

さて、これは明示されてはいないが、「従って行動する」ことは話の前提となっているようにも推測できる。つまり、人は善悪(命令者が不明な、「しろ・するな」という命令)に従うことが前提とされているように読み取れる。だとするなら、これは随分と大胆な前提だ。

また、次の文章も気になるのだ。
「責任能力のない者に対してはその行為を非難することができず(非難することに意味がなく)」

刑罰を科すかどうかの話なので仕方が無いのかも知れないが、ここで気になるのは、非難が前提となっていることだ。
つまり、「責任能力がある者に対しては、その行為を非難するのは、当たり前だ」というニュアンスが(明示されてはいないが)、感じられることだ。

つまり、あたかも次のように見えるのだ。

『命令者が不明な、「しろ・するな」という命令を弁別できる能力を持つ人が、その命令に従わない場合には、非難する。その非難には意味がある。刑罰を科す意味がある。』


・・・ということで、ああでもない、こうでもないと考え中です。
@あくまでも、「あたかも、見える」という錯覚の余地について、論じていることはご留意ください。


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  1. 2016/08/30(火) 15:14:14|
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