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応報刑論への感想:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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応報刑論への感想


刑事罰について、考え中。

応報刑論についてのWikiについての記述を見ると、以下のようにある。以下、引用。

絶対的応報刑論
絶対的応報刑論とは、刑罰とは正義の名の下における応報そのものであって、犯罪が悪とすると刑罰は悪に対する悪反動であり、動と反動とは均衡していなければならず、悪反動であるから刑罰の内容は害悪でなければならないという考え方をいう。よって刑の目的とは、犯罪の予防などではなく、犯罪予防の見地とは無関係にそれが「応報であるということのみ」によって正当化される。いわば、正義の見地から刑罰によって犯罪を相殺しようとする考え方である。
カントやヘーゲルによって主張され、刑罰の目的に関する絶対主義と結びついた。


これを一言でいうと、正義による悪への復讐、といったものだろうか。
二分割を前提としなければ成立しない荒っぽい論理であり、当然、そこには善悪の錯覚の可能性が内在する。

一方で、相対的応報刑論というものもある。

相対的応報刑論
相対的応報刑論とは、刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならず、犯罪防止の効果がありそのために必要な範囲内での(相対的な)応報を認めるとする考え方をいう。犯罪の予防という刑罰の目的を考慮する点で絶対的応報刑論と異なっている。


応報であることを認めた時点で、これもまた善悪二元論の世界観の中に位置するものとなっている。また犯罪防止の目的と、応報の目的は異なるものであるにも関わらず、同時に達成できるはずという「前提」の存在を見て取れる。
その点において、現実から乖離する危険がありそうだ。

・・・まあ、この辺りが刑事罰の現状か。
現実認識と錯覚が混在している。 ・・・これをどう、整理するかなあ。

それから話が少しずれるが、もう一つ、引っかかっていること。

日本には「罰を受ける(刑務所で服役)=罪を償う」という考え方があると思う。
これって、どういう考え方なのかなあ、と。 国家や刑務所は、神ではない。 刑務所に入ることで、何かが償われるのだろうか?
刑罰を受けることで、はれて釈放される。 一般市民としての自由が戻ってくる。
それは単に、刑罰が終わったというだけのこと。

誰に対して、何を償うことになるのか?

むろん、被害者への償いとは、これは全く別の概念となる。現実には、刑務所に入ることで罪を償ったと関係者に思われるかもしれないが、被害者への償いは行なわれない。

もし、刑務所に入ることで、罪がつぐなわれ、被害者への償いが終わって、つまりは被害者が救済されたと考えたなら、それは完全な錯覚だろう。 この錯覚がもしあるのだとすれば、それは応報刑論/善悪の錯覚から来るのかも知れない。

まあ、せいぜい、被害者が心の内に当然に持つであろう、怒り/復讐心が、被害者が何年か刑務所に入って辛い目に会ったことで、せいせいする、という効果はあるだろうが。「あいつ、私にひどいことをしたけれど、刑務所に入れられた。ざまあみろ」と。 しかしながら、これが罪のつぐない? 被害者へのつぐない? ・・・やっぱ、錯覚があるよなあ。


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以下は、雑談。

絶対的応報刑論は、きわめて宗教的な世界観だけれど、なんで国家の応報にこだわるのかな? 正義の名の元に、悪への応報(復讐)を、国家がする、ということだけれど。  当然、ここでいう正義とか悪というのは、一神教の世界観だと思う。
複数の異なる正義(アラブ世界の正義と、仏教国の正義は違うだろうというような)の存在など、認めていない。 自分の正義だけが神の正義であり、唯一の正義だといった考え方が前提となっているように感じられるが。

僕の日本人としての、素直な宗教観からすると、正義のために悪へ復讐するとするなら、それは人間というよりも神の御業であって、人間が心配することでもないように感じるのだ。天網恢恢疎にして漏らさずというように。

神ではなく、人間(国家)が応報することの意義は、神様への恭順を示す、ということなのかなあ? 「動と反動とは均衡していなければならず」というけれど、必ず均衡するものなら、人間(国家)が騒がなくても、自然法則として勝手に均衡するだろうに。あるいは、神様が均衡させてくれるだろうに。

・・・そっか。均衡するように頑張らないと、自分も悪になり、地獄に落ちる、神に呪われる、という発想か。 悪魔ではなく、神の側につくためには、神が定めた正義を守らなければならず、悪を懲らしめなくてはならず、それを怠れば、自分が悪魔側になってしまう、という世界観か。

国家は神の側に立たねばならず、神に祝福される存在でなければならず、神に味方をして、悪魔と戦わなければならない。そのためには神が定めた唯一の善悪の基準、正義を奉じて、それに反するものとは戦わなければいけない。神の定めた正義に反するものとは、例えば異教徒?であったり、魔女?であったり、犯罪者であったり。  ・・・となるのかな?

悪魔側ではなく、神様側につけ、という発想からすると、宇宙には(人間には)、悪魔側と神様側の二つのテリトリーがあることなる。まあ、まさに善悪だけれど。 これが一神教の世界観かな? 
一方で、僕の日本人としての宗教観というか、自然な感覚からすれば、悪魔のテリトリーがあるとしても、それは神様の懐の内。 お釈迦さまの手のひらからは逃げられないというような。 神様って、そういうもんだろうと。 神様って、すっごく偉いんだから、ライバル(たとえそれが悪魔であっても)なんていないだろう、と。

というように、ああでもない、こうでもないと考え中です。^^

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  1. 2016/08/17(水) 14:41:04|
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