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善悪中毒の無い世界:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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善悪中毒の無い世界


善悪の錯覚、「悪を罰しろ」「悪を憎め」といった条件付けが無い世界。
それはどんな世界なのか、ということをずっと考えている。
新しい絵本のアイデアを整理していたのだが、ここに引っかかってしまい、止まってしまったのだ。

善悪の二分類という習慣が無い世界。誰も、何かが(誰かが)、悪か善かなどと分類することに時間を使ったりしない世界。 

・・・とはいえ、むろん、その世界にも法律やルールはあるだろう。交通法規が無ければ、怖くて運転も出来ない。
法律があれば、違法行為は存在する。 善悪という概念がなくても、違法という概念は残る。

では罰則は? 
「悪は罰しろ」という条件付けが無ければ、違法行為への罰則は? 
無条件で、罰を与える、とはむろん、ならない。 とはいえ、一方で罰っすることを悪だと分類することもない。
つまり、次のようになる。 「悪だから」という分類の1手順が省かれるのだ。(この二分類の手順を省くということは、錯覚の余地を消すことでもある。)

    違法行為は悪だから、罰する。→違法行為だから、○○する。


この○○の中に、罰を含めて、様々な選択肢が入るのかも知れない。 (この様々な選択肢は、善悪のメガネでは見えにくい。)
罰はいうまでもなく、人を傷つけるもの。人への攻撃という側面を持つ。(復讐という側面もあるが、善悪のメガネを外せば、人々は復讐の対象を人ではなく、原因だと思う可能性が強いだろう。参照:絵本「愛する人が殺されたら」) ・・・であるならば、○○の中に入る、罰という選択肢は、優先順位が低く、かなり限定的なものとなるのかな。

違法行為に対する刑罰の大きな目的は、いうまでもなく犯罪抑止効果を期待してのもの。
飴と鞭という言葉があるけれど、恐怖は人間の動機付けで、とても大きい。それは即効性があり、大変に強い強制力がある。
と同時に、そこには巨大な副作用も存在する。恐怖で怯えた人間は凶暴化する。恐怖で冷え切った心に愛は生まれない。…何度となく、絵本ですでに描いた通りだ。

・・・こうした副作用まで考えるなら、罰という選択肢は、存在したとしても、せいぜい利害の調整ぐらいで(公園でごみを散らかしたら罰金というような。つまり公共の利益と個人の利益の調整。)、それは恐怖による人間コントロールとは別物なのかもしれない。
つまり、罰には以下の二種類がある。

1)利害関係の調整としての罰。・・・例えば、駐車違反の罰金1万円。 社会福祉サービス10時間。
2)人間の行動を恐怖で強制するというような罰。 ・・・例えば、死刑。無期懲役。拷問。社会生活の破滅。一家離散。

善悪中毒と無縁の世界でも、1)は残るのかな? では2)は?

2)を悪だという発想は無いとすると、どうだろう?
本当に成熟した世界なら、まず2)は残らないのかも知れない。 そこまで精神的に成熟していなくても、人々への自然な愛、共感が流れる世界なら、出来るだけ2)は避けたいと、自然に人々は願うような気がするな。 副作用には甚大なものがあるし、被害の拡大も予想されるのだから。

出来るだけ、2)を避けたいと思うのなら、そこには代替策が生まれるだろう。 あの手この手の工夫だ。
つまり、2)を避けても、犯罪が抑止できるように、また被害者が救済できるように、社会秩序が保たれるように、様々な工夫をする、ということだ。

すでに書いたように、恐怖には巨大な強制力がある。同時に副作用もある。 それを避けるためには、かなりの工夫が必要となる。つまり、善悪中毒と無縁な世界では、恐怖を伴う罰を、出来るだけ避けようと工夫することが、自然なこととなるだろう。

犯罪に関していえば、恐怖を伴う刑罰には出来るだけ頼らず、他の方法で犯罪の抑止をするように、工夫しようということだ。
僕がまず絵本で描くとするなら、ここで一つのテーマかな。 

    恐怖を伴う刑罰にはなるべく頼らず、他の方法で犯罪の抑止をするように、工夫しよう!


工夫しよう、というのは、変わったスローガンだが、ここは重要な部分だと感じる。 恐怖による人間コントロールは、ほとんどの犯罪に有効なのだ。それが万引きであろうと、性犯罪だろうと、窃盗であろうと、おれおれ詐欺だろうと、脱税だろうと、政治資金規正法違反であろうと、殺人であろうと、駐車違反であろうと。全部類似の刑罰で足りる。それは(長さは違うとしても)懲役か死刑だ。

一方で、恐怖を使わないとすると、万引きという犯罪防止と、性犯罪という犯罪防止の手法は、異なるものになるだろう。
それは貧困対策かも知れず、心の治療かも知れず・・・

もっと言うなら、同じ万引きの再犯防止であっても、個別の犯罪者によって対策は異なることとなる。 
つまり、母子家庭の母親が貧乏のあまり万引きをした場合と、中学生が度胸試しでした場合と、認知症のお年寄りが万引きをした場合と、再犯防止の対策は(有効なものとしたいのなら)全て異なることとなるだろう。つまりは、膨大な手間がかかり、知恵も工夫も必要なこととなる。

万引き一つでもこれだ。性犯罪の予防ともなれば、そこには相当な知恵・工夫が必要だ。 中には、快楽殺人者も存在する。
・・・そこには、心の治療にプラスして、隔離・保護も必要となる。

それは刑務所に閉じ込めるか死刑という、恐怖を伴う刑罰と似ているが、目的は罰することではなく、治療と保護になるだろう。本人の保護と、社会(潜在的犠牲者)の保護だ。

性犯罪対策を調べてみると、ミーガン法、ジェシカ法などもある。
正直、ミーガン法は、あまりピンと来なかった。一方でジェシカ法。 GPSで24時間、性犯罪者を監視するというシステムだ。韓国では足輪にしているとか。 性犯罪者に限らず、犯罪抑止と、犯罪者の更生(社会への適応)のための、過渡的なもの(つまり、保護観察処分のようなもの)としては、あるいは、使えるのだろうか?

恐怖を伴うものとはしたくないが。 つまり、犯罪者が足輪をはめられるという恐怖を強く感じれば、恐怖に狂うあまり、自暴自棄になれば、凶行に及ぶことも有るだろう。

幼児を散歩させるときに、欧米などでよく使われている紐のようなイメージなら、アリだろうか?

一方で認知療法で、かなりの治療成績があがっているという話もある。 治療に関するノウハウの蓄積は必要だろう。快楽殺人者を治療するノウハウ、・・・もちろん簡単なものではない。


この膨大な手間、知恵、工夫を思うと、死刑! 懲役! というシステムがいかに容易なものか。 ・・・容易さに流れる言い訳として、善悪のメガネが使われているという側面もあるのかな?

手間・知恵・工夫の蓄積。その方向性の中で、「こんな知恵がある。工夫がある」といった絵本は、別途書けるのかも知れない。

それから、読み返して気づいたが、罰っせられる側の受け取り方によっては、たとえ一万円の罰金であっても恐怖になりうるし、死刑であっても、恐怖と感じないこともある。受け取り手の問題というのは、あるのだろう。

自分自身を罰と恐怖でコントロールするのか、それとも自然な感情に任せるのか(このイメージは、孔子の言葉の「心の欲するところに従えども矩を喩えず」)という個人の問題も当然にあるだろう。 ・・・むろん、国と国との関係も同様だ。軍事力による恐怖で侵略を防ぐのか、それとも、というように。

善悪には4000年の歴史がある。世界中、善悪の錯覚があふれている。 善悪の錯覚が全くない世界は、残念ながら、そうそう見当たらない。 それは想像することでしか、見えてこない。

・・・ということで、ここしばらくは、想像の世界で遊んでいる。 あ~、しんど。笑






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  1. 2016/08/16(火) 13:38:41|
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