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絵本のアイデアを整理?:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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私どもの平和と癒しの運動の、日々の活動日誌です。

絵本のアイデアを整理?


次にどんな絵本を描くのか。どんな方針で新作絵本を描いていくのか。
そんなことを考えながら、100ページを超えるネタ帖を整理していたら、頭が混乱^^;

訳が分からなくなって、ひたすら眠くなってしまった。(苦笑)

おそらく、量というのは大切なのだ。もちろん、質が高いに越したことはないけれど、同時に絵本の量も必要なのだと思う。様々な角度から、ああでもない、こうでもない、と。
心に働きかけるという点を考えると、量を増やすことで、はじめて、可能になることがある。
50本よりは100本、それよりは200本と。

検索エンジン対策としても、ある程度の量は大事なのだと思う。

新作絵本を考えた場合、論理体系として、穴を埋めていく、ということも大事なのだけれど、同時に僕自身の創作意欲ということもある。必要性だけでは描けない。必要性と描きたいこと、というのは、また別なのだ。

描きたいことを、時にはダイレクトには描けない。隣町に行くのに、時にはアラスカを経由するようなことも必要だ。。
・・・色々な難しさがある。
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  1. 2011/05/12(木) 21:41:32|
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  4. コメント:6
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コメント

物事には、いろいろな面がありますものね。手を取り合い、助け合い、罰を恐れ、秩序を重んじ・・・

物事をまずは表から、つぎに裏から見る。それが出来たら、多面的に立体的に見る。次は、深さを見てみる。表面と本質と。。。さらには、時間軸を入れてみる。過去、今、未来と。つまりは原因、そして予測。 離れてみてみる。近づいてみてみる。比較してみる。

一面で決め付けたら、確かに短絡的ですね。^^
  1. 2011/06/29(水) 01:30:19 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

そうなると、日本人は手に手を取り合い、助け合ってきたというのは疑問ですね。
少なくとも、罰が無ければ秩序が保てなかったみたいですし、

(保ててたかどうかも疑問ですが)

http://pmazzarino.web.fc2.com/lesson2.html

東日本大震災で暴動が起きなかったのは、精神力が高いから等と言われてますが、そう決めつけるのは短絡的すぎる気がします。
  1. 2011/06/29(水) 00:26:07 |
  2. URL |
  3. 式神冷水 #-
  4. [ 編集]

そうですね。行動と本人の意思(希望?)が一致しないというのは、平和の絵本のテーマですね。
一致しない理由の一つは、強制。強制の中身は、国家がそれを行なう場合には、軍法会議、裁判、逮捕など。つまりは罰。厳罰。市民が行なう場合は、いじめ、リンチ、村八分など。ま、これも罰ですね。

罰が怖くて、戦争に行くのか、それとも戦争の大儀に共感して自分の意志で、戦争に行くのか。
こう問いかければ、戦争の問題になりますね。

以下のように問いかけると話は、さらに広くなると思う。
罰が怖くて、酒飲み運転をしないのか、それとも飲酒運転禁止の趣旨に共感して、酒飲み運転をしないのか。
こういう話をすると、刑事罰という制度の見直しにまで議論は関係してくる。

この辺りには書きたいこと、いっぱいあります。

もう一つ、意思と行動が一致しない大きな理由の1つは錯覚。そもそも勘違いしていたら、自分の望む結果は得られない。何をやっているのか、グチャグチャになります。

強制と錯覚も絡み合います。たとえば、「脅かされたような気がした」これだけで、人を動かすのには十分。それこそ「空気を読んで」原発を推進したり、反対したりという方もいるでしょう。それこそ電力会社の重役さんや、関連企業、官僚、マスメディア、関係者は今、みんな必死に空気を読んでいるかも???

空気を読んで行動する人の本当の意思とは? 本人にすら、分からないかも。

空気を読むだけで行動し、結果、大事故を引き起こした人の中には、「だって仕方ないじゃない」という人もいるかも知れない。(別に原発に限らず、戦争でも、金権政治でも、犯罪でも、事故でも)。心の中で、僕は強制されただけ、と被害者意識を持つ人すら、いるかもしれない。そこにはどんな「思い込み」があるのだろう? 彼はなにを錯覚しているのだろう?

そうすると、個人の生き方の問題として書けるよね。全てを他者のせいにして、自分を被害者にして生きるという選択。一方で徹底的に自己責任というのかしら、たとえ強制されて従う場合ですら、そこに自分の選択(つまり相手に従うという選択をする)を見るという行き方。こうしたこともやっぱり錯覚・認識の問題として書けるかな。

がんばります。^^;
  1. 2011/06/20(月) 01:42:01 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

例えば靖国神社は、「国のために尊い命をささげた戦没者に崇敬の念を抱く」言っています。
「国のために命を捨てた」のは真実でしょう。しかし、自らの意思だったかどうかは疑問です。
行為は評価していいかも知れませんが、戦没者の真意を無視し、神として祀り、称えることで本当に戦没者の意思を酌んだと言えるのでしょうか?
私には褒めて誤魔化し、更に利用しようとしてるとしか思えません。
祀られてる人の中には、朝鮮人兵士もいて、遺族からは国に返すよう求められてますが、日本の主張は一度合祀した人を外すことはできないということでトラブルになっています。

ここでは、「国のために命を捨てたのは真実」「本質は、強制があったのでは?」ということになります。

「善悪中毒」にも書いてあった気がしますので、ここで書く必要は無いかも知れませんねw


私は一番言いたいのは、行動と意思は必ずしも一致しないということです。
ですので、正確には「行動と意思そして、評価」とでもいいましょうか?


  1. 2011/06/19(日) 03:03:19 |
  2. URL |
  3. 式神冷水 #-
  4. [ 編集]

…といいますと?
  1. 2011/06/18(土) 10:05:57 |
  2. URL |
  3. 東郷 #-
  4. [ 編集]

「真実と本質」をテーマにしていただけませんか?
  1. 2011/06/17(金) 22:01:00 |
  2. URL |
  3. 式神冷水 #-
  4. [ 編集]

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