私ども平和の絵本の、日々の活動日誌です。

2016年08月:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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私どもの平和と癒しの運動の、日々の活動日誌です。

刑法上の責任能力を巡る雑感


ウィキペディアには、こうある。

刑法上の責任能力
刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力のことである。責任能力のない者に対してはその行為を非難することができず(非難することに意味がなく)、刑罰を科す意味に欠けるとされている。

そして、責任能力が無いものとして、子供とか心神喪失を例としてあげている。

善悪中毒の視点で、この定義に突っ込んでみると、「事物の是非・善悪を弁別し」でまず引っかかる。ここでいう善悪とは、何を意味しているのだろう? まず単純な感想として、僕自身は、事物の善悪を弁別する能力があるんだろうか?と。^^;

ともあれ、善悪というのは、絵本で何度も描いたように、「善をしろ。悪をするな」「善を愛せ。悪を憎め」という命令であり、誰が命令者かは、それだけでは不明だ。

そこで是非・善悪という言葉を抜いて、「事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力」を、僕が理解できる言葉で書き換えてみると、「事物に関する、命令者が不明の、しろ・するな/愛せ・憎めといった命令を弁別し、かつそれに従って行動する能力」となる。

命令者が不明の、しろ・するなという命令の弁別とは何だろう?

命令者が神であるなら、その命令の存在に気付けるかどうかは、かなり特殊な能力だと感じる。 もし命令者が安倍政権なら、従わない方も多いだろう。 命令者が学校の先生なら? 親なら? 刑法なら? それが憲法と矛盾していたら? クリスチャンと仏教徒の命令者は、異なるかも?

もう一度書く。

刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力のことである。 ➡ 刑法における責任能力とは、刑法上の責任を負う能力のことであり、事物に関する、命令者が不明な命令を弁別し、それに従って行動する能力のことである。

さて、これは明示されてはいないが、「従って行動する」ことは話の前提となっているようにも推測できる。つまり、人は善悪(命令者が不明な、「しろ・するな」という命令)に従うことが前提とされているように読み取れる。だとするなら、これは随分と大胆な前提だ。

また、次の文章も気になるのだ。
「責任能力のない者に対してはその行為を非難することができず(非難することに意味がなく)」

刑罰を科すかどうかの話なので仕方が無いのかも知れないが、ここで気になるのは、非難が前提となっていることだ。
つまり、「責任能力がある者に対しては、その行為を非難するのは、当たり前だ」というニュアンスが(明示されてはいないが)、感じられることだ。

つまり、あたかも次のように見えるのだ。

『命令者が不明な、「しろ・するな」という命令を弁別できる能力を持つ人が、その命令に従わない場合には、非難する。その非難には意味がある。刑罰を科す意味がある。』


・・・ということで、ああでもない、こうでもないと考え中です。
@あくまでも、「あたかも、見える」という錯覚の余地について、論じていることはご留意ください。



  1. 2016/08/30(火) 15:14:14|
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恐怖と地獄と厳罰と -整理の難しさ


まず、「恐怖」という視点。これが一番、上位の視点だとする。

1)
その広い視点で、いろいろと人間心理への影響を考えると、そこには様々な利点、欠点など、論じたいテーマが存在する。この視点から、イジメ問題から、軍拡、戦争、そして地獄なども絡めて考えることができる。ここには、ありとあらゆる人間心理への影響が存在して、社会システムも、国際社会の在り方も、宗教も論じることが出来る。

2)
刑法なり、厳罰化という視点は、それよりもやや狭い。つまりやや下位の視点。 
極刑は死刑。 場合によって拷問。それから、長期間の懲役など。 ・・・こうした刑罰への恐怖。 ここでも様々な問題点を論じることが出来る。

絵本を書く上で、困るのが、1)と2)の区別なのだ。 つまり、1)で論じたい問題点の多くと2)で論じたい問題点の多くが重複する。つまり、一般心理としての恐怖の問題点と、刑罰が与える恐怖の問題点とは、かなり近い。 かといって、1)の視点と2)の視点。決して同じではない。そして、どちらも重要なのだ。

どちらも外せない視点だけれど、内容の7割ぐらいが重複しそう。 かといって同じような内容の絵本は書きたくない。
・・・この辺りの整理で、いつも困ってしまう。 

愛の錯覚に関しても、ストーカー心理と侵略戦争の心理が、同じ愛の錯覚で説明できてしまう、といったことがあり、その時は結局、愛を命令しないでというオムニバス絵本で、切り抜けたけれど。あるいは、悪を責めるという心理で、禁煙と犯罪予防という全く違う事象で共通の心理も、これは失敗し続ける方法というオムニバス絵本で書いた。

銀行強盗の心理と地獄の恐怖を煽る心理と厳罰化の心理もまた共通すると思うのだけれど、・・・今度はどうしよう? オムニバス絵本には馴染まなさそうだなあ。。。  中身の重複を気にしない、という手もあるのかなあ?

同じ内容を、少し角度を変えて描き、「同様の心理を○○絵本でも、描いています」と注釈をつけるかなあ。
重複を避けたい、と思って書いているけれど、ある程度の妥協は仕方無いのかなあ。

「恐怖シリーズ」の絵本集と、「刑罰シリーズ」の絵本集と、それぞれに10本~30本ぐらいの絵本を書きたいと思っているのだけれど、かなりの共通する部分。そして、共通しない部分。  振り分けが難しい。

もう少し、悩もう。^^;
  1. 2016/08/28(日) 15:18:27|
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厳罰と依存症と善悪


今、整理していること。

1)厳罰による犯罪抑止効果の限界。 副作用。

2)依存症。 分かっちゃいるけど、やめられない心理。 ・・・厳罰化で対応できない。

3)そして、善悪の錯覚。 どうこれらの問題と関わっているか。 

この3つのテーマで、おそらく数十本の絵本になる。 それぞれの絵本のテーマが有機的にかかわってくるので、そこの部分の整理がとても難しい。 切り口を間違えると、1本1本の絵本は書けても、全体としてはグチャグチャになってしまうのだ。 

まだもうしばらく、考える必要がある・・・
  1. 2016/08/27(土) 15:06:32|
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それにしても善悪


善悪について、最近見つけた新しい切り口から、色々考えているのだが。

・・・それにしても、善悪。 人間心理、社会のありとあらゆることに関わっている。これほどまでに関わっている。
これほどまでに、歪めている。

まるで魚が水について考えているかのようだ。  あらゆることに善悪は関わっていて、改めて驚かされるのだ。
あれもこれも、あれもこれも、善悪で歪んでいる。 再犯率が高いのも、ストーカーが生まれるのも、嘘や偽善が多いのも、抑圧された潜在意識が生まれるのも、争い合うのも、貧富の格差にも、むろん、テロや戦争にも、自殺にも、善悪の歪みは、おおいに関わる。善悪の歪みは、人類のまさに不幸の源泉だ。

これだけ善悪について、十数年以上、考え続けているのに、改めて、呆れる。 まったくもって、どっから手をつけたものかと・・・

少し頭を冷やそう。^^;


  1. 2016/08/22(月) 16:44:18|
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善悪について、別の角度から


新しい絵本のアイデアを整理するプロセスで、刑事罰・刑法などを考えていたらハタと止まって、ああでもない・こうでもないと、しばらく考えがまとまらなかった。

ようやくちょっとブレイクスルーかな、という気がしている。^^

ここ何日かの瞑想の中で、角度を変えて見直したところ、細かい法律論などをスキップして、あくまでも「善悪の錯覚」という視点は守ったままで、言いたいことが書けそうだと。^^

ようやく思いついた切り口を今日初めて使ってみたのだが、新しい絵本のプロットが簡単に8本できたのだ。あと10本~20本ぐらいはこの調子で出来そうだ。 これで刑事罰、刑法に関する、絵本としては細かすぎる話を一切せずに、僕の中のモヤモヤとしたものを吐き出せそうだ。

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自分の役割を考えたとき、平和の運動を大きくし広げることには、やはり優先順位を高くつけられないかな、と感じている。

平和の絵本を始めたときから、●絵本を書くこと ●運動を大きくし広げること の二つの課題の間で、どちらが優先かと、常に自問自答を繰り返してきた。

WEBにアップし、スマホ対応し、英語に訳して、動画を作って、PDFファイルを用意して、広告を出して ・・・これらは全て、運動を大きく広げるための作業。

そしてこういう作業をしているとき、新しい絵本を書くことは、なかなか出来ない。 
新しい絵本は、運動の基礎であり土台。 僕は大真面目に数百年かけて世界を変えようと思っている。4,000年の歴史を持つ錯覚をぶち壊そうと。 それを思うと、やはり基礎・土台が何よりも大切なのだ。そしてそれにはどうも、膨大な時間がかかりそうだ。

善悪中毒の元原稿を2000年ごろに書いていたとき、「善悪中毒」の本と、それから絵本が2~3本あれば、善悪中毒と戦えるかな、と考えていた。 その後、平和の絵本のWEBを2004年に始めたときは、自分の生涯で100本ぐらい絵本を書ければ、と思っていた。 今は善悪中毒の続編を2冊書き、絵本も95本ほどアップしているが、どうもエンドレスだという感じがしてきた。長い年月かけて積み重なってきた錯覚を壊すなど、まだまだだ、と。

いやはや・・・^^;;



  1. 2016/08/20(土) 16:20:06|
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条件付きの愛


ああでもない、こうでもないと。笑


幼児期の子供は、出来るだけ抱きしめて育てろ、という。無条件に抱きしめられて、可愛がられることで、愛されている実感を持ち、安心する。甘やかしになるかどうか、という心配は、もう少し大きくなってから。 とにかく3歳未満?ぐらいまでは、無条件に抱きしめる。

これをすることで、「愛」を子供は学習する。それは観念的なものではなく、具体的なものであり、実感なのだ。それは親のぬくもりであり、やさしさであり、何かとっても気持ちの良いものなのだ。それが愛。

愛されて育った子供達には、あまりにも当たり前の「愛」なのだが、一方で愛を知らずに育つ子もいる。たとえば、しょっちゅう虐待されるとか、無視されるとか。 彼らにとって、愛は難しくて観念的なものとなる。そして条件付きのものとなる。それは何かとても難しいものとなる。

あるがままで、人間は神様に愛されているのか。
それとも、正義のために悪と戦わないと、地獄に落とされるのか。虐待されるのか。愛されないのか。

この違いは、そんな世界観にも関わってくるだろう。

逆に言えば、親の持つ世界観は、そのまま子供への態度を規定する。
親は子供を愛さなくてはならない。 そのためには、子供を善なる存在にしなければいけない。 そのためには、殴ってでも悪いことをさせてはならない。甘やかしてはならない。

あるいは、子供はただ、可愛い。そして素直に抱きしめる。


神はあるがままの自分を愛してくれる。親はあるがままの自分を愛してくれる。そう思えば、自分の感情を肯定できる。すなおに愛することもできる。そして愛されることも。それは全く難しくはない。

一方で、神は善なる自分だけ、条件付きで愛する。 悪なる自分は憎まれる。 そう思えば、自分の感情を仕分けする。抑圧が生まれ、分裂が生まれる。 ・・・むろん、それは犯罪の原因にもなる。   お金への執着は、愛の不足への補償。  愛の強制、性犯罪は、愛を求めて。抑圧され、閉じ込められた自分は、心に作った牢獄の中で孤独のあまり泣き叫ぶ。


つまり、宗教的な世界観も、親子の関係も、全部つながっているのだ。
刑事罰の世界も。   テロと戦争も。  心の分裂も、精神的な異常も。   性犯罪も。



表現していきたいなあ!















  1. 2016/08/17(水) 15:19:08|
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応報刑論への感想


刑事罰について、考え中。

応報刑論についてのWikiについての記述を見ると、以下のようにある。以下、引用。

絶対的応報刑論
絶対的応報刑論とは、刑罰とは正義の名の下における応報そのものであって、犯罪が悪とすると刑罰は悪に対する悪反動であり、動と反動とは均衡していなければならず、悪反動であるから刑罰の内容は害悪でなければならないという考え方をいう。よって刑の目的とは、犯罪の予防などではなく、犯罪予防の見地とは無関係にそれが「応報であるということのみ」によって正当化される。いわば、正義の見地から刑罰によって犯罪を相殺しようとする考え方である。
カントやヘーゲルによって主張され、刑罰の目的に関する絶対主義と結びついた。


これを一言でいうと、正義による悪への復讐、といったものだろうか。
二分割を前提としなければ成立しない荒っぽい論理であり、当然、そこには善悪の錯覚の可能性が内在する。

一方で、相対的応報刑論というものもある。

相対的応報刑論
相対的応報刑論とは、刑罰が応報であることを認めつつも、刑罰は同時に犯罪防止にとって必要かつ有効でなくてはならず、犯罪防止の効果がありそのために必要な範囲内での(相対的な)応報を認めるとする考え方をいう。犯罪の予防という刑罰の目的を考慮する点で絶対的応報刑論と異なっている。


応報であることを認めた時点で、これもまた善悪二元論の世界観の中に位置するものとなっている。また犯罪防止の目的と、応報の目的は異なるものであるにも関わらず、同時に達成できるはずという「前提」の存在を見て取れる。
その点において、現実から乖離する危険がありそうだ。

・・・まあ、この辺りが刑事罰の現状か。
現実認識と錯覚が混在している。 ・・・これをどう、整理するかなあ。

それから話が少しずれるが、もう一つ、引っかかっていること。

日本には「罰を受ける(刑務所で服役)=罪を償う」という考え方があると思う。
これって、どういう考え方なのかなあ、と。 国家や刑務所は、神ではない。 刑務所に入ることで、何かが償われるのだろうか?
刑罰を受けることで、はれて釈放される。 一般市民としての自由が戻ってくる。
それは単に、刑罰が終わったというだけのこと。

誰に対して、何を償うことになるのか?

むろん、被害者への償いとは、これは全く別の概念となる。現実には、刑務所に入ることで罪を償ったと関係者に思われるかもしれないが、被害者への償いは行なわれない。

もし、刑務所に入ることで、罪がつぐなわれ、被害者への償いが終わって、つまりは被害者が救済されたと考えたなら、それは完全な錯覚だろう。 この錯覚がもしあるのだとすれば、それは応報刑論/善悪の錯覚から来るのかも知れない。

まあ、せいぜい、被害者が心の内に当然に持つであろう、怒り/復讐心が、被害者が何年か刑務所に入って辛い目に会ったことで、せいせいする、という効果はあるだろうが。「あいつ、私にひどいことをしたけれど、刑務所に入れられた。ざまあみろ」と。 しかしながら、これが罪のつぐない? 被害者へのつぐない? ・・・やっぱ、錯覚があるよなあ。


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以下は、雑談。

絶対的応報刑論は、きわめて宗教的な世界観だけれど、なんで国家の応報にこだわるのかな? 正義の名の元に、悪への応報(復讐)を、国家がする、ということだけれど。  当然、ここでいう正義とか悪というのは、一神教の世界観だと思う。
複数の異なる正義(アラブ世界の正義と、仏教国の正義は違うだろうというような)の存在など、認めていない。 自分の正義だけが神の正義であり、唯一の正義だといった考え方が前提となっているように感じられるが。

僕の日本人としての、素直な宗教観からすると、正義のために悪へ復讐するとするなら、それは人間というよりも神の御業であって、人間が心配することでもないように感じるのだ。天網恢恢疎にして漏らさずというように。

神ではなく、人間(国家)が応報することの意義は、神様への恭順を示す、ということなのかなあ? 「動と反動とは均衡していなければならず」というけれど、必ず均衡するものなら、人間(国家)が騒がなくても、自然法則として勝手に均衡するだろうに。あるいは、神様が均衡させてくれるだろうに。

・・・そっか。均衡するように頑張らないと、自分も悪になり、地獄に落ちる、神に呪われる、という発想か。 悪魔ではなく、神の側につくためには、神が定めた正義を守らなければならず、悪を懲らしめなくてはならず、それを怠れば、自分が悪魔側になってしまう、という世界観か。

国家は神の側に立たねばならず、神に祝福される存在でなければならず、神に味方をして、悪魔と戦わなければならない。そのためには神が定めた唯一の善悪の基準、正義を奉じて、それに反するものとは戦わなければいけない。神の定めた正義に反するものとは、例えば異教徒?であったり、魔女?であったり、犯罪者であったり。  ・・・となるのかな?

悪魔側ではなく、神様側につけ、という発想からすると、宇宙には(人間には)、悪魔側と神様側の二つのテリトリーがあることなる。まあ、まさに善悪だけれど。 これが一神教の世界観かな? 
一方で、僕の日本人としての宗教観というか、自然な感覚からすれば、悪魔のテリトリーがあるとしても、それは神様の懐の内。 お釈迦さまの手のひらからは逃げられないというような。 神様って、そういうもんだろうと。 神様って、すっごく偉いんだから、ライバル(たとえそれが悪魔であっても)なんていないだろう、と。

というように、ああでもない、こうでもないと考え中です。^^


  1. 2016/08/17(水) 14:41:04|
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善悪中毒の無い世界


善悪の錯覚、「悪を罰しろ」「悪を憎め」といった条件付けが無い世界。
それはどんな世界なのか、ということをずっと考えている。
新しい絵本のアイデアを整理していたのだが、ここに引っかかってしまい、止まってしまったのだ。

善悪の二分類という習慣が無い世界。誰も、何かが(誰かが)、悪か善かなどと分類することに時間を使ったりしない世界。 

・・・とはいえ、むろん、その世界にも法律やルールはあるだろう。交通法規が無ければ、怖くて運転も出来ない。
法律があれば、違法行為は存在する。 善悪という概念がなくても、違法という概念は残る。

では罰則は? 
「悪は罰しろ」という条件付けが無ければ、違法行為への罰則は? 
無条件で、罰を与える、とはむろん、ならない。 とはいえ、一方で罰っすることを悪だと分類することもない。
つまり、次のようになる。 「悪だから」という分類の1手順が省かれるのだ。(この二分類の手順を省くということは、錯覚の余地を消すことでもある。)

    違法行為は悪だから、罰する。→違法行為だから、○○する。


この○○の中に、罰を含めて、様々な選択肢が入るのかも知れない。 (この様々な選択肢は、善悪のメガネでは見えにくい。)
罰はいうまでもなく、人を傷つけるもの。人への攻撃という側面を持つ。(復讐という側面もあるが、善悪のメガネを外せば、人々は復讐の対象を人ではなく、原因だと思う可能性が強いだろう。参照:絵本「愛する人が殺されたら」) ・・・であるならば、○○の中に入る、罰という選択肢は、優先順位が低く、かなり限定的なものとなるのかな。

違法行為に対する刑罰の大きな目的は、いうまでもなく犯罪抑止効果を期待してのもの。
飴と鞭という言葉があるけれど、恐怖は人間の動機付けで、とても大きい。それは即効性があり、大変に強い強制力がある。
と同時に、そこには巨大な副作用も存在する。恐怖で怯えた人間は凶暴化する。恐怖で冷え切った心に愛は生まれない。…何度となく、絵本ですでに描いた通りだ。

・・・こうした副作用まで考えるなら、罰という選択肢は、存在したとしても、せいぜい利害の調整ぐらいで(公園でごみを散らかしたら罰金というような。つまり公共の利益と個人の利益の調整。)、それは恐怖による人間コントロールとは別物なのかもしれない。
つまり、罰には以下の二種類がある。

1)利害関係の調整としての罰。・・・例えば、駐車違反の罰金1万円。 社会福祉サービス10時間。
2)人間の行動を恐怖で強制するというような罰。 ・・・例えば、死刑。無期懲役。拷問。社会生活の破滅。一家離散。

善悪中毒と無縁の世界でも、1)は残るのかな? では2)は?

2)を悪だという発想は無いとすると、どうだろう?
本当に成熟した世界なら、まず2)は残らないのかも知れない。 そこまで精神的に成熟していなくても、人々への自然な愛、共感が流れる世界なら、出来るだけ2)は避けたいと、自然に人々は願うような気がするな。 副作用には甚大なものがあるし、被害の拡大も予想されるのだから。

出来るだけ、2)を避けたいと思うのなら、そこには代替策が生まれるだろう。 あの手この手の工夫だ。
つまり、2)を避けても、犯罪が抑止できるように、また被害者が救済できるように、社会秩序が保たれるように、様々な工夫をする、ということだ。

すでに書いたように、恐怖には巨大な強制力がある。同時に副作用もある。 それを避けるためには、かなりの工夫が必要となる。つまり、善悪中毒と無縁な世界では、恐怖を伴う罰を、出来るだけ避けようと工夫することが、自然なこととなるだろう。

犯罪に関していえば、恐怖を伴う刑罰には出来るだけ頼らず、他の方法で犯罪の抑止をするように、工夫しようということだ。
僕がまず絵本で描くとするなら、ここで一つのテーマかな。 

    恐怖を伴う刑罰にはなるべく頼らず、他の方法で犯罪の抑止をするように、工夫しよう!


工夫しよう、というのは、変わったスローガンだが、ここは重要な部分だと感じる。 恐怖による人間コントロールは、ほとんどの犯罪に有効なのだ。それが万引きであろうと、性犯罪だろうと、窃盗であろうと、おれおれ詐欺だろうと、脱税だろうと、政治資金規正法違反であろうと、殺人であろうと、駐車違反であろうと。全部類似の刑罰で足りる。それは(長さは違うとしても)懲役か死刑だ。

一方で、恐怖を使わないとすると、万引きという犯罪防止と、性犯罪という犯罪防止の手法は、異なるものになるだろう。
それは貧困対策かも知れず、心の治療かも知れず・・・

もっと言うなら、同じ万引きの再犯防止であっても、個別の犯罪者によって対策は異なることとなる。 
つまり、母子家庭の母親が貧乏のあまり万引きをした場合と、中学生が度胸試しでした場合と、認知症のお年寄りが万引きをした場合と、再犯防止の対策は(有効なものとしたいのなら)全て異なることとなるだろう。つまりは、膨大な手間がかかり、知恵も工夫も必要なこととなる。

万引き一つでもこれだ。性犯罪の予防ともなれば、そこには相当な知恵・工夫が必要だ。 中には、快楽殺人者も存在する。
・・・そこには、心の治療にプラスして、隔離・保護も必要となる。

それは刑務所に閉じ込めるか死刑という、恐怖を伴う刑罰と似ているが、目的は罰することではなく、治療と保護になるだろう。本人の保護と、社会(潜在的犠牲者)の保護だ。

性犯罪対策を調べてみると、ミーガン法、ジェシカ法などもある。
正直、ミーガン法は、あまりピンと来なかった。一方でジェシカ法。 GPSで24時間、性犯罪者を監視するというシステムだ。韓国では足輪にしているとか。 性犯罪者に限らず、犯罪抑止と、犯罪者の更生(社会への適応)のための、過渡的なもの(つまり、保護観察処分のようなもの)としては、あるいは、使えるのだろうか?

恐怖を伴うものとはしたくないが。 つまり、犯罪者が足輪をはめられるという恐怖を強く感じれば、恐怖に狂うあまり、自暴自棄になれば、凶行に及ぶことも有るだろう。

幼児を散歩させるときに、欧米などでよく使われている紐のようなイメージなら、アリだろうか?

一方で認知療法で、かなりの治療成績があがっているという話もある。 治療に関するノウハウの蓄積は必要だろう。快楽殺人者を治療するノウハウ、・・・もちろん簡単なものではない。


この膨大な手間、知恵、工夫を思うと、死刑! 懲役! というシステムがいかに容易なものか。 ・・・容易さに流れる言い訳として、善悪のメガネが使われているという側面もあるのかな?

手間・知恵・工夫の蓄積。その方向性の中で、「こんな知恵がある。工夫がある」といった絵本は、別途書けるのかも知れない。

それから、読み返して気づいたが、罰っせられる側の受け取り方によっては、たとえ一万円の罰金であっても恐怖になりうるし、死刑であっても、恐怖と感じないこともある。受け取り手の問題というのは、あるのだろう。

自分自身を罰と恐怖でコントロールするのか、それとも自然な感情に任せるのか(このイメージは、孔子の言葉の「心の欲するところに従えども矩を喩えず」)という個人の問題も当然にあるだろう。 ・・・むろん、国と国との関係も同様だ。軍事力による恐怖で侵略を防ぐのか、それとも、というように。

善悪には4000年の歴史がある。世界中、善悪の錯覚があふれている。 善悪の錯覚が全くない世界は、残念ながら、そうそう見当たらない。 それは想像することでしか、見えてこない。

・・・ということで、ここしばらくは、想像の世界で遊んでいる。 あ~、しんど。笑







  1. 2016/08/16(火) 13:38:41|
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我が敵は、人に非ず


自戒の念を込めて。  …僕自身、錯覚しないように。

他の人々へ害をなす、多くの人々がいる。 それは例えば、サヨクの人、ウヨクの人、犯罪者の人、戦争屋の人、金持ちの人、労働者の人、利権屋の人、日本の人、中國の人、朝鮮の人、アメリカの人、神道の人、クリスチャンの人、イスラムの人、無宗教の人・・・

左翼だから敵/味方ではない。右翼だから悪/善ではない。日本人だから、米軍関係者だから、朝鮮人だから、ユダヤ人だから、障害者だから、男だから、女だから、同性愛だから、○○村だから、常に、善/悪ではないし、嘘つき/正直ではないし、敵/味方ではないし、加害者/被害者でもない。

僕が問題としているのは、あくまでも人が持つ錯覚であり、錯覚を育む文化/物の考え方にある。  むろん、文化/物の考え方は、人種を越えて流動し、影響しあう。宗教、政治信条を越えて広がっていく。 錯覚も様々な擬態を繰り返しつつ、グループを越えて広がっていく。

錯覚であるからには、どのグループの人々にも、何かについて錯覚している人も・いない人もいる。 錯覚の程度も違う。どの個人をとっても、100%錯覚と無縁な人間などいないし、逆に100%錯覚だけで生きている人もいない。僕自身の中にも、様々な事象に関して、無数の錯覚があり、誤解があり、無理解がある。人間なのだから、当たり前だ。

いうまでもなく、各グループそれぞれで、特徴的な文化があり、錯覚の傾向というものは存在する。 しかしながら、錯覚の傾向をもって、そのグループの人々を悪だ・敵だ、と僕がもし考えたなら、僕自身、更なる錯覚の罠にはまることとなる。

平和の絵本が問題視しているのは、特定のグループの「人々そのもの」ではない。あくまでも人々が持つ錯覚であり、錯覚を生む心の癖/原因にこそある。 

和が敵は人に非ず。 特定の人の集団に非ず。

自戒の念を込めて。


  1. 2016/08/01(月) 14:31:17|
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