私ども平和の絵本の、日々の活動日誌です。

日誌:「平和の絵本で-和を地球へ」活動日誌

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私どもの平和と癒しの運動の、日々の活動日誌です。

新作絵本「恐怖は意欲を消す」アップ


新作絵本「恐怖は意欲を消す」をアップしました。

サポーターの方の意見を入れて、「思い入れ過剰」を意識してみました。
出来るだけ身近に感じていただきたいという趣旨から、子供を叱るというごく身近な出来事を取り上げ、善悪という言葉も意識的に使っていません。

「罰は〇〇を生む」というタイトルからも離れています。 
子供の叱り方に悩む、親御さんには、ぜひご覧になっていただきたいと思います。

またご感想なりお聞かせください。<(_ _)>

→絵本「恐怖は意欲を消す」

  1. 2017/07/05(水) 15:35:35|
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絵本3本のストーリー固め


罰の副作用を描く絵本。
もうそろそろやめようかとも思っていたのだが、サポーターの方から、「思い入れ過剰」という視点も必須とのアドバイスを受けて、もう一度、考えてみた。

そこで、前から温めていたストーリーをちょっと書き直して、あまり善悪とか罰という言葉を全面に出さず、日常生活の一コマといった趣で、「思い入れ過剰」から、恐怖が生まれ歪んでいく、そんなお話を2本完成させてみた。

それから、これも、前から考えていた絵本「罰は愛を消す」も、より自然なシチュエーションに変えてみた。

あとは絵を描いて、罰の副作用の絵本3本追加となる。

罰の副作用としては、まだまだ絵本の種はあるのだけれど、さすがに副作用だけで20本を超えることになるので、しばらくは打ち止めにするかなあ、と。

その後は、罪の錯覚を描く絵本を考えてる。2本ぐらいに分けることになるかな?
  1. 2017/07/01(土) 15:39:49|
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新作絵本「罰は逆効果を生む」アップ


新作絵本「罰は逆効果を生む」アップです。

命令や罰は「上下関係」を前提として、上から下へ、「下す」ものです。そのため、命令内容そのものではなく、強制された上下関係へ反発されることもあるでしょう。
反発されれば、かえって逆効果になることもあります。
そんな心理を描いてみました。これも罰の副作用の一つだと考えています。

またご感想なりお聞かせください。<(_ _)>

→新作絵本「罰は逆効果を生む」
  1. 2017/06/25(日) 14:57:54|
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善悪中毒の無い世界


地球で猛威を振るう善悪中毒、数千年の錯覚の歴史。
恐らくメソポタミアから世界へ広がった善悪中毒は、いまや全世界に広まっており、地球人は錯覚の中でもがき、凶暴化し、争い・殺し合っている。

この善悪中毒を治したい。 これが平和の絵本のメインテーマ。

そこで、善悪中毒の中身、錯覚の構図をずうっと絵本で書き続けてきたが、では、善悪の錯覚が消えたらどうなるのか?
これを描く必要性を次第に強く感じるようになってきた。

日本は比較的善悪中毒の程度は低い。 しかしながら、それでも全世界に蔓延する善悪中毒から自由なわけではない。日本の社会システムも、人々の考え方も、錯覚で大きくゆがんでいる。

善悪の錯覚が無い世界というのは、今、地球上にどれほど残っているのか? 少なくとも工業化された社会(いわゆる先進国)では皆無だろう(僕が知らないだけかも知れないが)。

善悪の錯覚を乗り越えた世界を絵本で描きたくても、少なくとも複雑な社会システムを持つ「先進国」に例はなく、絵本で描くためには、想像するしかない。かといって、あまりに突拍子もない想像では、読者も僕自身もついてはいけない。

善悪の錯覚を排したときに、果たして刑法はどうなるのか? 罰は? 裁判は? 刑務所の役割は? 再犯をどう防ぐのか?社会秩序は? 社会はどう変化するのか?

この半月ほど、ずうっと罪や罰について考え続けて、ようやく、「善悪中毒の無い世界」を絵本で描けるかなあ、という気がしてきた。^^

平和の絵本はまだまだ完成していない。
今、120本。 300本ぐらいになれば、ある程度、体系としては完成するのかなあ? 善悪の錯覚の危険を描き、そのシステムを描き、そして、錯覚が無くなった世界を提示する。 そして周辺の感情論。認識論。

最初は死ぬまでに100本は描きたいと思っていた。 次の目標は300本かな。

僕が死ぬまでに、300本ぐらいの絵本は残したい。
後に続く者あるを信じて。^^


  1. 2017/06/12(月) 13:59:41|
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罪・犯罪という言葉


善悪の錯覚を避ける上で、普段、僕自身が気を付けているのは、自分では、善悪という言葉を使わないこと。
正しい・悪い 正義・悪 なども。 いわば自主的な言葉狩りだ。^^

もちろんそれだけでは完全ではない。言葉にはニュアンスがあるからだ。
極端に善悪のニュアンスが強い言葉も、自分の中では使わない。例えば、しなければいけない、するべきだ、という言い方もなるべくしない。むろん、それらの言葉が悪いからではなく、出来るだけ、錯覚を避けたいからだ。

そして違う言い方を探す。
ほとんどの場合、それは簡単だ。 少し不便を感じるけれど、それほど言い換えが難しいわけではない。
けれど、時々、言い換えることがとても難しいと感じることもある。
この難しさこそが、「錯覚」の部分。 これを心掛けることで、「あ、善悪の錯覚が残っていた」と気付くことが出来る。そして気が付けば、錯覚を消すことが出来る。


そんなことを習慣にしているのだけれど、「罪」「犯罪」「犯罪者」という言葉も狩る対象なのかなあ、と。
罪や罰について、ずっと考えている中で、これらの言葉も錯覚の温床では、という気がしてきたのだ。

悪というニュアンスが、これらの言葉には強く残存する。 つまり、これらの言葉を使うことで、より意味がはっきりするのではなく、意味がかえってぼやけることが多いのでは、ということだ。

例えば、傷害。 窃盗。 殺人など。 ・・・そこで止めておく。 これらを罪、犯罪とあえて言わない。むろん、それらは刑法に違反している。 「傷害が起きた。これがその人。傷害は刑法に違反している。 」 ここで止める。 

これを、罪を犯した犯罪者というと、窃盗も障害も殺人も、いっしょくたに見えてくる。 もし全く違う事象が同じであるかのように見えてしまったら、つまり、錯覚だ。

以下の二つ現実認識から、違う発想が自然に生まれてくることは、お分かりいただけるだろうか?

1)認識;「窃盗があった。罪が犯されたのだ。」→生まれる発想;「犯罪者を捕まえて罰さなければ」
2)認識;「窃盗があった。」→生まれる発想;「加害者は、なぜそんなことをしたんだろう? 被害者の救済は、どうしよう? 原状回復は? 原因は? 予防は?」

むろん、罰が悪だというわけではない。2)であっても、「罰」を使いたいケースは残るのかも知れない。全ての場合を考えつくしているわけではない。けれど、かなり限定的になるだろうな、とは思っている。どんなときに、どんな「罰」が必要なのか。代替手段はあるのか? これはまだまだ考える必要がある。

とはいえ、1)から2)へ。 これを目指すことで、ずいぶんと違う世界が開けるのでは、と期待している。^^


  1. 2017/06/11(日) 16:40:00|
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