私ども平和の絵本の、日々の活動日誌です。

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新作絵本「罰は逆効果を生む」アップ


新作絵本「罰は逆効果を生む」アップです。

命令や罰は「上下関係」を前提として、上から下へ、「下す」ものです。そのため、命令内容そのものではなく、強制された上下関係へ反発されることもあるでしょう。
反発されれば、かえって逆効果になることもあります。
そんな心理を描いてみました。これも罰の副作用の一つだと考えています。

またご感想なりお聞かせください。<(_ _)>

→新作絵本「罰は逆効果を生む」
  1. 2017/06/25(日) 14:57:54|
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善悪中毒の無い世界


地球で猛威を振るう善悪中毒、数千年の錯覚の歴史。
恐らくメソポタミアから世界へ広がった善悪中毒は、いまや全世界に広まっており、地球人は錯覚の中でもがき、凶暴化し、争い・殺し合っている。

この善悪中毒を治したい。 これが平和の絵本のメインテーマ。

そこで、善悪中毒の中身、錯覚の構図をずうっと絵本で書き続けてきたが、では、善悪の錯覚が消えたらどうなるのか?
これを描く必要性を次第に強く感じるようになってきた。

日本は比較的善悪中毒の程度は低い。 しかしながら、それでも全世界に蔓延する善悪中毒から自由なわけではない。日本の社会システムも、人々の考え方も、錯覚で大きくゆがんでいる。

善悪の錯覚が無い世界というのは、今、地球上にどれほど残っているのか? 少なくとも工業化された社会(いわゆる先進国)では皆無だろう(僕が知らないだけかも知れないが)。

善悪の錯覚を乗り越えた世界を絵本で描きたくても、少なくとも複雑な社会システムを持つ「先進国」に例はなく、絵本で描くためには、想像するしかない。かといって、あまりに突拍子もない想像では、読者も僕自身もついてはいけない。

善悪の錯覚を排したときに、果たして刑法はどうなるのか? 罰は? 裁判は? 刑務所の役割は? 再犯をどう防ぐのか?社会秩序は? 社会はどう変化するのか?

この半月ほど、ずうっと罪や罰について考え続けて、ようやく、「善悪中毒の無い世界」を絵本で描けるかなあ、という気がしてきた。^^

平和の絵本はまだまだ完成していない。
今、120本。 300本ぐらいになれば、ある程度、体系としては完成するのかなあ? 善悪の錯覚の危険を描き、そのシステムを描き、そして、錯覚が無くなった世界を提示する。 そして周辺の感情論。認識論。

最初は死ぬまでに100本は描きたいと思っていた。 次の目標は300本かな。

僕が死ぬまでに、300本ぐらいの絵本は残したい。
後に続く者あるを信じて。^^


  1. 2017/06/12(月) 13:59:41|
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罪・犯罪という言葉


善悪の錯覚を避ける上で、普段、僕自身が気を付けているのは、自分では、善悪という言葉を使わないこと。
正しい・悪い 正義・悪 なども。 いわば自主的な言葉狩りだ。^^

もちろんそれだけでは完全ではない。言葉にはニュアンスがあるからだ。
極端に善悪のニュアンスが強い言葉も、自分の中では使わない。例えば、しなければいけない、するべきだ、という言い方もなるべくしない。むろん、それらの言葉が悪いからではなく、出来るだけ、錯覚を避けたいからだ。

そして違う言い方を探す。
ほとんどの場合、それは簡単だ。 少し不便を感じるけれど、それほど言い換えが難しいわけではない。
けれど、時々、言い換えることがとても難しいと感じることもある。
この難しさこそが、「錯覚」の部分。 これを心掛けることで、「あ、善悪の錯覚が残っていた」と気付くことが出来る。そして気が付けば、錯覚を消すことが出来る。


そんなことを習慣にしているのだけれど、「罪」「犯罪」「犯罪者」という言葉も狩る対象なのかなあ、と。
罪や罰について、ずっと考えている中で、これらの言葉も錯覚の温床では、という気がしてきたのだ。

悪というニュアンスが、これらの言葉には強く残存する。 つまり、これらの言葉を使うことで、より意味がはっきりするのではなく、意味がかえってぼやけることが多いのでは、ということだ。

例えば、傷害。 窃盗。 殺人など。 ・・・そこで止めておく。 これらを罪、犯罪とあえて言わない。むろん、それらは刑法に違反している。 「傷害が起きた。これがその人。傷害は刑法に違反している。 」 ここで止める。 

これを、罪を犯した犯罪者というと、窃盗も障害も殺人も、いっしょくたに見えてくる。 もし全く違う事象が同じであるかのように見えてしまったら、つまり、錯覚だ。

以下の二つ現実認識から、違う発想が自然に生まれてくることは、お分かりいただけるだろうか?

1)認識;「窃盗があった。罪が犯されたのだ。」→生まれる発想;「犯罪者を捕まえて罰さなければ」
2)認識;「窃盗があった。」→生まれる発想;「加害者は、なぜそんなことをしたんだろう? 被害者の救済は、どうしよう? 原状回復は? 原因は? 予防は?」

むろん、罰が悪だというわけではない。2)であっても、「罰」を使いたいケースは残るのかも知れない。全ての場合を考えつくしているわけではない。けれど、かなり限定的になるだろうな、とは思っている。どんなときに、どんな「罰」が必要なのか。代替手段はあるのか? これはまだまだ考える必要がある。

とはいえ、1)から2)へ。 これを目指すことで、ずいぶんと違う世界が開けるのでは、と期待している。^^


  1. 2017/06/11(日) 16:40:00|
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罰と恐怖の絵本シリーズのトップ頁に書き加え


ああでもない、こうでもないと考え中。
罰シリーズの中で、「罪」に触れるかどうか。 罪と罰というように、罪は罰とはセットとなっている言葉。だからどうしても触れなければと最初は思ったのだが、罪という概念は、善悪の錯覚の補完的なものであって、それ自体が積極的に錯覚を生む言葉ではない。 だから、無視してもどうということは無いのかな、という気もしてきている。

ただ知りたい読書のために、「罪とは何ぞや」を善悪の錯覚との関係で描く意義はあるとは思う。書くとしたら、このシリーズの中で、触れるのか、それとも別の個所で触れるのか。

それから距離感のことをどうするのかも気になっている。善悪はいわば対等な戦い。罰は支配システム(社会秩序も含めて)の上下関係の中での攻撃。善悪の距離感は遠く、罰の距離感は近くて上下がある。どちらも、攻撃であり、恐怖を伴うものであることに変わりはない。どこまで行っても、恐怖に頼る、という心理は描いてみたいけれど、まだストーリーが思いつかない。^^;;

そんな中で、まあ、今日は出来ることをしようと、罰と恐怖の絵本シリーズのトップ頁に以下の内容を書き加えてみた。


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上記以外にも、罰の副作用は、この平和の絵本の中で何回も登場します。 以下、絵本の元のタイトルと、()内で、その絵本で触れている罰の副作用をタイトル風に書いてみました。 ご参照ください。
 次の2つの絵本は、2004年5月に本WEBを立ち上げた時から公開している3本の絵本のうちの2本です。ちなみに「良い子にならなきゃ」は、僕が生まれて初めて書いた絵本です。

●良い子にならなきゃ (罰は争いを生む)  ●どっちだ?(罰は無差別殺人を生む)

 それから、オムニバス絵本「失敗し続ける方法」の絵本集でも、罰の副作用を描いています。

●泥棒を減らさない方法(罰は、泥棒の原因の放置を生む)  ●禁煙に失敗し続ける方法(罰は、禁煙失敗を生む)  ●禁酒に失敗し続ける方法(罰は、禁酒失敗を生む) ●犯罪を減らさない方法(罰は、各種犯罪の原因の放置を生む)  ●愛する人が殺されたら(罰は、殺人の原因の放置を生む)

 愛の錯覚を描く絵本集でもも、罰の副作用に触れています。

●愛と嘘(罰は、愛の嘘を生む)  ●子供を愛しなさい(罰は、児童虐待を生む)  ●恋人を愛しなさい(罰は、性的虐待を生む)

 差別に関する絵本集の中にも、罰の副作用を見つけました。

●差別と現実逃避(罰は、人種差別を生む) ●追いつめられて(罰は、人と猿の見間違いを生む) ●悪夢からの逃走(罰は、疑似科学を生む)

 罰の副作用がどれほど多岐にわたり深刻なものであるか、思いを馳せて頂ければ幸いです。
  1. 2017/06/03(土) 15:14:06|
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罪と罰; 今、考えていること


あと2-3本で罰と恐怖シリーズは終えるつもりでいた。
何か大事なことを忘れていないか、見直していたところ、あ、ヤバいと。^^;

善悪の錯覚との関連、罪のことなど、かなり重要なテーマに触れていないことに気づいたのだ。

例えば、罪。 
罪とは何か、あなたはスラスラお答えになることが出来るだろうか?

善悪中毒といった視点から、罪を考えると、善悪と罪の補完関係が見えてくる。
例えば、善悪の錯覚を生むモチベーションに、罰の恐怖は強く関係しているだろう。 命令不服従の罪に対する罰への恐怖が錯覚を生むともいえる。

「あいつは悪だ!」は「あいつを無制限、無条件に攻撃しろ!」という攻撃命令となりうるが、罪は、その無制限の攻撃を、逆に、コントロール/制限することと深く関係しているだろう。無制限の攻撃命令の結果、勝敗がついたところで、罪によって、無制限の攻撃命令を解除するというか、再度、制限することとなる。
その時、善悪の錯覚は、よりコントロールできる形で、罪の中に、しまい込まれる。罪は、やってしまった悪の量と深く関わる。悪の量を測定し表すものだ。

これによって錯覚は残しつつ、錯覚から脱出し現実へ戻る道を罪という言葉が用意していることはお分かりだろうか?
悪魔イメージが、リュックサックを背負った人間に戻るのだ。悪と人間が切り離されて、切り離された悪が、罪というリュックサックとなる。

そして、もちろん、罪と罰。罪に罰はつきものの概念となる。
罰することで、罪が償われる。 償われれば、無罪放免。善人へと戻ることも出来る。つまり、錯覚から現実へ戻る道だ。

罰することで罪がつぐなわれる(リュックサックが軽くなる)。悪が薄められ、消滅し、善へと戻る。 
この言葉の成立のためには、善悪の錯覚が前提となるだろう。善悪の錯覚があって、初めて、罰によって罪の償いという考え方が生まれることとなる。 問題とされるのは、いつも「悪」であり、犯罪の原因の解決といった発想は、これでスッポリと抜け落ちる。

それから、罪・罰・命令という言葉と、人間同士の上下関係。これも大事なテーマだ。

命令が成立するためには、命令者と命令される者との間に、上下関係が存在することが前提となる。
命令への不服従へ罰が下される。つまり、罰は、上下関係を前提としている。
であるなら、罰と対の概念である罪という言葉もまた、上下関係の存在が前提とされる。

人によっては、ルール/倫理/善悪/モラル/神は、人間より上位だという方もいるだろう。 ルールに権威を付与するもしないのも、人の決めることであり、その意味では、人間同士の上下関係を問題にすれば、このテーマの中では十分だと思うが、絵本で触れる必要はあるかもしれない。

さて、善悪には上下関係はない。そこにあるのは、葛藤であり、戦いだ。 上下関係を前提とする罰ではない。

善悪の錯覚を利用して、人をコントロールするとき、動機としては罰の恐怖が使われる。つまり、恐怖を動機として、人と人は錯覚し、争い合う。その結果、勝敗がつけば、上下関係が生まれることとなる。その上下関係は、罪と罰によって、コントロールされる。
つまり、罰の恐怖で社会秩序を守ることとなる。

まとめれば、上下関係がない人々は、恐怖を動機として、善悪で錯覚しあい争いあう。一方で(勝敗がついたりして)上下関係がある人々は、恐怖を動機として、よりコントロールされた善悪の形としての罪と罰で社会秩序を守ろうとする。 …どこまで行っても、恐怖が人を支配するのだ。

善悪、罪、罰。 これは恐怖と錯覚で人を支配するための、完成したシステムとなる。
善悪はモロに錯覚を生みだす工夫。罪は、人間と悪の分離。罰は、人間に対するものだが、あたかもリュックサック(罪)に対するもののように見せかけた攻撃であり、恐怖の源泉。

そんな大きな流れの中で、善悪、罪、罰、恐怖、錯覚を描き出したいのだが。
絵本のストーリーにどうすれば、落とせるのか? どうすれば、この恐怖の流れを描き出せるのか。
罰シリーズの中で書くのか、それとも全然、別のシリーズを始めるのか。

しばらくは、絵本の執筆ではなく、Thinking timeとなりそうだ。^^;
  1. 2017/06/01(木) 12:01:15|
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